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陰陽連絡の最重要幹線である伯備線。SL時代ほどの本数はないものの、今なお4往復もの貨物列車が運転されている。 この路線の鳥取・岡山県境には谷田峠があり、25‰上り勾配が介在しているが、現在はEF64形が単機で600トンの貨物列車を牽引して、40Km/H前後で峠を越えている。 40年以上前、4人の乗務員によるD51重連貨物列車は、620トン牽引・時速20Km強で峠を越えていた事を振り返れば、まさに”近代化のお手本”と言える。ここに至る歴史を、若干振り返ってみたい。 ※掲載写真は、基本的に筆者撮影(一部所蔵写真を、加工処理して掲載)。 |
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@伯備線D51・最後の活躍 | ||||||||||||||||
1:2492レ・第23西川橋梁を行く、布原D51三重連(先頭861) | ||||||||||||||||
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SLブーム当時、”SLブームの象徴”と言われていた、布原D51三重連である。 元々は重連で牽引できる列車であったため、前から2番目の機関車は、回送扱いであった。当日早朝の下り貨物列車2本のうち、1本の補機が中止になると、D51重連となっていた。そのため、三重連になる確率は、概ね5割だと言われていた。 末期になると、布原信号場を出発してこの第23西川橋梁に差し掛かる前に、ドレインを出し切ってしまう、ファンサービス運転が行われていた。この日は寒さもあってか、橋梁上でもドレインを出し続けている。 この頃、毎日500人〜千人ほどのファンが訪れ、現地には臨時のうどん屋も出ていた。詳細は割愛するが、1970年12月〜1971年2月頭まで、撮影地有料化を発端に「三重連騒動」が起きた。 |
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布原(信)→新見 1972年1月23日 |
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2:2492レ・爆煙の布原D51三重連(774+837+473) | ||||||||||||||||
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足立発飾磨港行・2492列車は、足立石灰工業からの石灰石(消石灰:セキ6000に搭載、生石灰:ホキ7000に搭載)を輸送する、鉱石専用貨物列車であった。 列車重量:約500〜600トンに対し、急勾配区間のD51牽引定数は330トンであり、補機が必要であった。D51重連で牽引可能だが、運用上の都合で先頭から2番目に、回送のD51が付き、三重連となっていた。 ※D51三重連・先頭機→当日早朝の下り465列車の後補機、次位機→同じく当日早朝の下り463列車の後補機を、それぞれ務めたD51が折り返し運用で、生山→足立間を重連単機で走った。その重連単機が足立駅到着後、「本務機+石灰石列車編成」の前部に付いたものであった。 |
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布原(信)→新見 1972年1月30日 |
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3:2492レ・ファンサービスの布原D51三重連(937+837+256) | ||||||||||||||||
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山陽新幹線岡山開業の3日前の日曜日、「先頭機にヘッドマークの付いた唯一、最初で最後」の布原D51三重連である。 私自身もこの時、現地にいたが、この時布原界隈に集まった、SLファンは2700人と報じられた。集まったファンの数・山の斜面の”三脚の林”の光景は凄まじく、この日のNHK・19時の全国ニュースでも大きく取り上げられた。 ちなみにヘッドマークが付いたのは、新見機関区のファンサービスであった。 「さよならD51」のヘッドマークが付いたため、”最後のD51三重連”との誤解があり、一部鉄道雑誌でも報じられたが、本当の最後は翌日:3月13日であった(本来なら3月14日が最後のD51三重連であったが、14日はD51重連であった)。 |
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布原(信)→新見 1972年3月12日 |
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4:2492レ・最後の布原D51三重連(889+651+758) | ||||||||||||||||
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正真正銘の「最後の布原D51三重連」である※。”昭和40年代のSLブームの象徴”と言われ、函館本線急行ニセコ・C62重連と人気を二分した、一世を風靡した、布原D51三重連もこれで最後となった。 ※1:前日の3月12日(日)が、最後の布原D51三重連であった旨の雑誌記事もあるが、本当の最後はこの日だった。 ※2:翌日の3月14日(火)は、早朝の下り貨物列車が1本ウヤとなった関係で、D51三重連ではなく、D51重連だった。 ※3:3月15日(水)から、ダイヤ改正で2492列車から5390列車に列車番号が変わり、「DD54+次D51」に替わった。 ※4:同年10月2日のダイヤ改正では、DLはDD51に統一され、5390列車「DD51+次D51」となった。 |
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布原(信)→新見 1972年3月13日 |
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5:6465レ・D51376+D51797+貨車 | ||||||||||||||||
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今は複線の橋梁に架け替えられた、井倉駅を出てすぐの第8高梁川橋梁である。井倉駅で機関士さんと少し話をしていると、”鉄橋の方へ行っておれ。煙を出してやるから…”と言われて、ここにたどり着いた。客観的に見れば、トップライト・逆光条件だが、当時中2の私としてはこれが精一杯で、”約束どおりの猛烈な煙”に感動のあまり、ベストアングルも逃してしまった。 それでも、撮影後力一杯機関士さんお二方に手を振ると、激動しているであろうD51のキャブから、ともに敬礼していただき、しばし呆然として、胸が熱くなった。 ※この時期、D51三重連は消えていたものの、D51重連貨物列車は5本残っていた(6465レ・785レ・787レ・5594レ・5392レ)。また新見以南では、DE10重連+D51貨物列車(三重連)も見られた。 |
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井倉→石蟹 1972年8月18日 |
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6:6465レ・D51376+貨車+逆後D51524 | ||||||||||||||||
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上と同じ列車だが、岡山(操)→新見間がD51重連で、新見→生山間は後部にD51の補機が逆向きに連結された、プッシュプル運転だった。 生山までの補機が逆向きに連結された理由は、当時の生山駅にはD51用の転車台がなかったためである(ただし、現在は撤去されているが、構内上菅側に「米子⇔生山間区間列車用の8620形用手動式転車台」はあった。 上り貨物列車:生山→新見間は、正向きで前補機または次位補機となり、重連運転(生山に到着した後補機のD51は向きを変えず、上り列車の補機となるべく待機していた)。 現在の伯備貨物は、EF64単機で600トン牽引可能だが、D51・DD51は、新見⇔生山間の牽引定数:単機・330トン、重連・620トンだったので、長い編成の貨物列車には補機が必要だった。 |
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布原(信)→備中神代 1972年8月18日 |
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7:462レ・DD5430+次D51889+貨車 | ||||||||||||||||
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あまり知られていないが、”悲運のDL”である、DD54形が米子(操)⇔新見間に、1年間(1971・10・1〜1972・10・1)入線し、伯備貨物の本務機および客車列車牽引に活躍した。 ただし、D51・DD51がともに「動輪上重量:60トン」であるのに対して、DD54のそれは56トンで、相対的に空転しやすく、「DD54形による伯備線全面無煙化は困難」と判断されて、岡山区DD51にバトンを渡して、山陰・播但線無煙化用に転用された。 ※格好いいDLであったが、推進軸や変速機トラブルが絶えず、1978年6月に引退した。 ※伯備線DD54入線期間で、後半の1972・3・15〜1972・10・1は、新見⇔岡山間におけるDLは、「DE10重連(常時)」が主に使用された(一部DE50)。 |
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布原(信)→新見 1971年11月16日 |
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8:新見機関区D51/米子機関区D51 | ||||||||||||||||
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1972・3・15のダイヤ改正で、布原D51三重連が消え、伯備線は全線にわたりDLの姿が目立った。 伯備線米子(操)⇔新見間の貨物列車については、1往復を残し、他はDD54に替わった。 この時点の新見機関区D51・新見以北の運用↓ ●生山⇔新見間の補機 ●足立⇔新見間の貨物列車牽引。 ●米子(操)⇔新見間の不定期貨物列車(1往復:6465レ・6468レ) 当ダイヤ改正では、米子機関区D51の伯備線運用は無くなり、DD54に替わった。 写真左側の256号機は新見機関区所属で、数少ない米子(操)⇔新見間の貨物列車牽引まで待機していた。 右側の303号機は、米子機関区所属。米子機関区D51は、当ダイヤ改正でわずか3両(303・504・620)に減った。 |
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米子機関区 1972年8月27日 |
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9:米子機関区で休む、2両の新見機関区D51 | ||||||||||||||||
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1972・10・2のダイヤ改正で伯備線のDLは、「DD54/DE10重連」→「DD51」となり、伯備線貨物列車は、基本的にD51・DD51の2形式に統一された。 ※伯備線では、D51とDD51の共存期間は半年間だった。 ※わずか1両のDE50形も走行したと思われるが、詳細は不明。 ※伯備線米子(操)⇔新見間の貨物列車については、D51牽引が3往復残った。 この時点の新見機関区D51・新見以北の運用↓ ●生山⇔新見間の補機 ●足立⇔新見間の貨物列車牽引。 ●米子(操)⇔新見間の貨物列車(3往復:475レ・5571レ・470レ・474レ・1492レ他1本) 画像の861号機・473号機は、夜間の470レ・474レ牽引まで庫内で休んでいた。 |
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米子機関区 1972年11月5日 |
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10:782レ・D51524+貨車 | ||||||||||||||||
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足立発新見行の小運転貨物列車で、わずか5両編成である。 上り列車は正向きだが、往路の足立行は逆向きのD51が先頭に立っていた。それも今となっては、懐かしいシーンである。 長い編成の米子(操)→新見間・貨物列車の本務機は、殆どがDD51に替わっていたが、生山→新見間で次位補機にD51が多く見られた。 本務機D51は、夜間の470レ・474レと昼間の1492レのみだった。 キハ181系下り特急やくも号との列車行き違いのため、この撮影時点で既に姿を消してしまっていた、D51三重連同様、布原信号場出発の迫力あるシーンを見る事ができた。 阿哲峡布原にこだまする、D51の汽笛は素晴らしく、今でも強く印象に残っている。 |
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布原信号場 1972年12月10日 |
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11:完全無煙化を約3か月後に控えた、新見機関区@ | ||||||||||||||||
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新見機関区で休む、D51・3両(524+797+473)と、462列車牽引のため、新見駅に向かう直前のD51758(左)である。 正月明けのためか、まだ休んでいる機関車が多い印象だった。 この撮影後、右側に目をやると、DD51用の軽油を積んだタンクローリーが到着したのが、今でも印象に残っている。それは、伯備線におけるD51の余命もあとわずかと、強く感じさせるものだった。 余談であるが、先頭のD51524は、完全無煙化後約3か月経過して、最後まで新見機関区に残っていたが、この年の7月23日付けで浜田機関区に転属した。 また1975年2月3日、国鉄後藤工場最後の解体SLとなった。 ※許可を得て撮影。 |
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新見機関区 1973年1月8日 |
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12:完全無煙化を約3か月後に控えた、新見機関区A | ||||||||||||||||
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完全無煙化を約3か月後(1973年4月1日、伯備線完全無煙化)に控えて、扇形庫に勢揃いするD51だが、休車が目立つのも印象的だった。 ●新見機関区D51(18両) (1972・10・2改正時点) 195・256・376・409・473・481・488・524・665・758・774・797・837・838・861・869・937・1067 ●新見機関区D51(10両) (1973・3・31時点・伯備線D51最終営業運転日) 256・376・481・488・524・797・837・838・869・1067 ●伯備線D51さよなら臨時列車 466レ・D51838+旧型客車×5 新見→岡山間・1973年4月1日 ※466D→466レに変更で運転。 |
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新見機関区 1973年1月8日 |
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伯備線完全無煙化1週間前のD51838の勇姿である。 下り込みで煙は出ないのは分かっていたが、鳥取県側の米子(操)⇔生山間ではD51は殆ど見られなくなっていたので(夜間・早朝の2往復の貨物列車のみ)、記録しておきたく伯耆溝口駅近くで撮影した。 江尾駅出発は当時の時刻表を見ると、6時3分、伯耆溝口駅通過は6時16分。早朝の曇という条件の中、D51の姿は見えないのに何度も何度も汽笛が聞こえてきた。これは、物凄く幻想的な光景であった。 一度この列車他の谷田峠に挑む迫力あるサウンドを録音したいと思っていたが、中2の身分では叶わず終わった。 せめてあと5年早く生まれていれば、当時発売直後のデンスケで、ステレオ録音できていたであろう。 |
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伯耆溝口→岸本 1973年3月25日 | ||||||||||||||||
14:待機するD51376と922レ・DD51 | ||||||||||||||||
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1972年10月、米子機関区DD54のバトンを受けて、岡山機関区DD51による伯備線無煙化が進んだ。 新幹線岡山開業の1972・3・15〜1972・10・1の約半年間は、新見⇔岡山間無煙化推進用として、DE10重連(常時重連)が進出したが、1972・10・2以降は、伯備線全線でDD51が活躍を始めた。 以降完全無煙化まで、半年間D51とDD51が共存した。 これは、米子操車場発の1492列車(現在の3082列車のスジ)の前補機となるため、待機しているD51とDD51牽引客車列車のスナップである。完全無煙化前の象徴的なシーンとも言える。 ●SLブーム当時は、敷地内撮影は黙認状態だったので、ご了承いただきたい。 |
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生山駅 1973年3月25日 |
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15:待機するD51376 | ||||||||||||||||
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NO.14と同じ場所・日時である。小雪の舞う中、376号機が待機していた。 小雪が舞い、雪景色でもあるのにスノープラウを既に外していたのには、違和感を覚えた。 暖かくなってきていたのに、急に冷え込んだのであろう。 この時点で、一足先に石蟹⇔岡山(操)間が完全無煙化されており、NO.12の記載どおりD51の配置は10両に減っていた。 新見⇔米子(操)完全無煙化まで1週間に迫ったこの日、見たD51は、838・376・837・473・256の5両のみだった。 ※473号機はこの日見たが、3月31日を待たずして浜田機関区に異動した。 |
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生山駅 1973年3月25日 |
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16:1492レ・前D51376+DD51+貨車 | ||||||||||||||||
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上の画像のD51376が、1492列車の前補機(生山→新見間)となって谷田峠を越えてきて、布原信号場を通過したところである。 1973年3月1日からは、石蟹⇔岡山(操)間が一足先に完全無煙化されていた。そこで、当時の新見機関区では、「布原信号場付近」を伯備線D51最後の撮影適地として、SLファンに薦めていたと聞いた。 ※この区間完全無煙化に伴い、新見機関区D51使用両数が15両→10両に減少した。 この時期、谷田峠越えの貨物列車は、殆どが「DD51+次D51」の編成であったところ、この列車のみ前D51だったので、人気があった。 しかしながら、この撮影の1年前にD51三重連が消えてからは、伯備線を訪れるSLファンは激減し、この列車をここで見送ったのは20人程度であった。 |
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布原信号場 1973年3月25日 |
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17:1496レ・DD51+次D51837+貨車 | ||||||||||||||||
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伯備線完全無煙化までの半年間、谷田峠越えの貨物列車で見られた、典型的な重連である。今思えば、D51三重連よりもむしろ貴重なシーンだが、当時のSLファンからは「前DL」というのは、かなり嫌われていた(播但線の前DD54+C57も同様であった)。 伯備線D51最後の半年間において、谷田峠越え・D51重連貨物列車(474列車)も残っていたが、それは深夜の時間帯に走る列車だった。考えられる理由は、この当時、キハ181系特急やくも号が4往復設定されており、少しでも気動車との並行ダイヤが可能なように(勾配区間の速度向上)、DD51が本務機となる貨物列車を、昼間の貨物列車に設定したためと思われる。 |
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布原信号場 1973年3月25日 | ||||||||||||||||
18:6465レ・DD51+貨車+逆後D51256 | ||||||||||||||||
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1972・10・2ダイヤ改正で伯備線全線にDD51が登場した後、以前D51どうしのプッシュプルだった、この6465列車も本務機がDD51に替わった。この列車は、現代のコキ71形に相当する、車運搬車:ク5000形を連結しているのが印象的で、この時もDD51の次次位に連結していた。 信号場通過のため、減速して軽やかなエンジン音を響かせて、まずはDD51、そして続く貨車が通過し、最後に血相変えた雰囲気で逆向きのD51が通過した。石炭焚D51とDD51との出力比較※では、DD51が若干パワーが上回る(20%〜30%)ためか、この時もD51が”引っ張られている”感があった。 ※重油併燃D51は、1590PSあり(石炭焚D51:1180PSまたは1280PS)、DD51:1540PS(14N時)とほぼ同等であった。 |
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布原(信)→備中神代 1973年3月25日 |
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19:浜田機関区に転属する、新見機関区D51 | ||||||||||||||||
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伯備線D51最終営業運転日における、米子機関区情景である。 右側は546レを牽引してやってきた、浜田機関区C57だが、左側のD51488・真ん中のD51481は、この日の日付で新見機関区から浜田機関区に転属するところである。 この日、生山駅まで行こうと考えていたが、国鉄職員の方に確認したところ、「新見のD51はもう殆ど動いていないよ。」と言われて、列車移動するのをやめた記憶がある。 後でわかった事だが、この営業運転最終日は、足立→新見間・5390レの次位補機のみD51だったようである。 従って、やはり生山駅まで行ったとしても、新見機関区のD51は全く見れず、もはや新見機関区で庫内に休むD51しか見れなかったようである。 |
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米子機関区 1973年3月31日 |
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A伯備線・DD51の時代 | ||||||||||||||||
1:462レ・DD51797+貨車/560レ・D51620+貨車 | ||||||||||||||||
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米子操車場が開設されてから2年後の姿である。左が伯備線DD51、右が山陰本線D51である。 伯備線は完全無煙化から約1年経過、山陰本線米子(操)⇔下関間完全無煙化8か月前の時点だった。 何気ないスナップであるが、今思えば貴重な”51形どうし”の並び、「バトンを渡す者」と「バトンを渡される者」との並びであったと言える。 伯備線・山陰本線に限らず、昭和40年代の主要幹線・亜幹線で見られた光景であろう。 余談であるが、左側のDD51797は、解体を免れ、現在ミャンマーに渡り、活躍中である。右側のD51620は、大山口駅横に静態保存されたが、近年諸般の事情により解体され、隠岐の島で一部の部品が展示されている。 |
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米子操車場 1974年3月17日 |
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2:465レ・DD511020+貨車+後DD51793 | ||||||||||||||||
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伯備線完全無煙化から約5年後、先の画像撮影からも5年経過した後の同一列車(列車番号は、定期列車に変わっていました)である。撮影地点は異なるが、同じ場所を行くところである。 1972年8月に、全く同じ場所でD51どうしのプッシュプルを撮影した事もあって、D51と比較したい”という思いから、とても新鮮に映った。この頃はまだ電化工事は始まっておらず、ポールは建っていなかった。従って、いつまたD51がやってきてもおかしくはない、雰囲気が漂っていた。沿線の構築物等の微妙な変化に、5年の歳月の経過を感じた。 この地点は15.2‰であり、若干軽やかな通過であったが、D51同様迫力あるものだった。この地点ではD51の同列車との速度差は感じなかった(25‰上り勾配では、DD51の方がD51よりやや速い)。 |
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布原(信)→備中神代 1978年3月29日 |
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3:左からD51(195・838・665・481)・DD51777・D51(937・837) | ||||||||||||||||
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かつての「伯備貨物」牽引機の基地は、「新見機関区」であった。現在は、1980年頃の電化関連工事に伴い、跡形もなくなっているが、津山機関庫同様に立派な扇形庫があった。 機関区の開設は昭和3年(1928年)10月25日で、今から48年前の1970年6月には、D51:26両・C58:13両、合計:39両ものSLを保有していた。機関車の駐泊が全く見られない、現在とは隔世の感がある。 この画像は完全無煙化の3ヶ月前で、既にC58の姿はなく、DD51が入線し、D51も15両に減少していた。D51は休車のカマが目立つ状況で、引退が近い事を示すものだった。 ●許可を得て撮影。 |
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新見機関区 1973年1月8日 |
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4:左からDD51779・DD511024・DD511021・DD511025 | ||||||||||||||||
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NO.3の画像の5年後、まだ大がかりな電化関連工事が始まる前の新見機関区である。 この頃は、まだSL時代の面影を色濃く残していた。微妙な変化はあるが、扇形庫・転車台も健在で、駐泊しているカマが、D51・C58からDD51・DE10に替わっただけ、と思えた。 DLの通常の保守作業は、伯備線用DD51の配置が岡山機関区であるにもかかわらず、新見機関区で行なわれていたような印象だった。 この頃の岡山機関区DD51配置両数は、25両であった。この中には、500代ナンバー機のほか、若番:4号機が含まれていた。 ●許可を得て撮影。 |
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新見機関区 1978年3月29日 |
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5:跡形も無い、新見機関区扇形庫 | ||||||||||||||||
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NO.19の画像の21年後の、同一場所の姿である。 前述のとおり、機関車は1台もいない。また、昼間は電車・気動車の駐泊も少なく、夜間に115系電車・キハ120系気動車の駐泊が見られる程度である。思えば48年前、真夜中であってもD51やC58が黒煙を噴き上げ、遠くまで汽笛を響かせ、さかんに構内を行き来していた、その同じ場所であるとは到底思えない。 まさに、”浦島太郎”の心地になる場所であり、近くの後藤総合車両所(国鉄時代の米子機関区)が、比較的当時の面影を残しているのとは対照的である。背景の山の稜線が、ここが同じ場所である事を如実に示している。 ●許可を得て撮影。 |
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新見運転区 1999年9月12日 |
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6:5390レ・DD511019+貨車 | ||||||||||||||||
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伯備線完全無煙化から5年3か月後、あのD51三重連牽引であった、足立発飾磨港行・石灰石専用貨物列車は、このように変わっていた。 完全無煙化当時(1973年4月)は、「DD51重連+ワフ+セキ6000×5両前後+ホキ7000×4両前後+ヨ」の編成だったが、5年余の間に、消石灰を積むセキ6000の姿が消えていた。 いつからかは不明であるが、1975年前後に、足立石灰工業から出荷される石灰石のうち、消石灰についてはトラック輸送に置き換わったと推測される。列車重量が、当然DD51の牽引定数330トン未満なので、単機牽引に変更になっていた。 この撮影から8年後の1986年10月、国鉄飾磨港線の廃止に伴い、ホキ7000に積載していた生石灰の輸送もトラックに置き換えられた。 |
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布原(信)→新見 1978年7月25日 |
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7:5492レ・DD51795+貨車 | ||||||||||||||||
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21と同一系統列車だが、1978年10月のダイヤ改正で、列車番号が5390レから5492レと変わった。 また列車編成についても、ホキ7000以外の他形式の貨車が連結されるようになった。この時は、側面白帯無しのDD51795号機牽引だったので、印象に残っている。 ●この頃の伯備線用岡山機関区DD51配置は以下のとおりだった。 ※1978・3・31現在 ※全28両 4・776・777・779・780・ 781・782・783・784・785・ 792・793・794・795・796・ 797・798・841・1017・1018・ 1019・1020・1021・1022・ 1023・1024・1025・1026 |
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布原(信)→新見 1978年12月29日 |
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8:5492レ・DD51795+貨車 | ||||||||||||||||
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NO.7と同じ列車を、やや俯瞰気味に撮影した。奇しくも、また白帯無しの795号機牽引だった。 それにしても、昔詩人若山牧水に「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」と歌われた、景勝地阿哲峡布原だけあって、紅葉期・若葉の季節でなくとも景色は美しい。 この撮影の7年前のD51三重連最終日前日ではじっくりと味わえなかった、美しい景色をゆったりと楽しむ事ができたのだった。布原D51三重連の最終列車が走行してからちょうど7年後の、同系列の列車の姿である。 D51三重連の時代の重量感・迫力と比較すると、その姿は寂しいものではあったが、この時点ではとにもかくにも、足立石灰工業の鉱石列車は存続していた。 |
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布原(信)→新見 1979年3月13日 |
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9:1492レ・DD51779+貨車 | ||||||||||||||||
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伯備線完全無煙化から5年後、DD51の時代真っ只中の時期、伯備貨物の標準的な姿である。 この画像では補機は付いていないが、生山⇔新見間では25‰上り勾配が多く存在するため、長編成の貨物列車には、D51の時代と同様に補機が連結された。 貨物列車の編成両端には緩急車が連結され、かつ2軸貨車主体の編成であった事が、大きな特徴だった。現在このような列車が走っていれば、パニックになるであろうが、この当時の非電化区間はDF50走行路線を除き(この撮影時点で、DD54は姿を消した直後)、全国どこへ行っても「凸形DL+貨車」であり、つまらないというのが、当時の鉄道ファンの評価であった。 |
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布原(信)→新見 1978年7月25日 |
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10:1990レ・DD511026+DD51+貨車 | ||||||||||||||||
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先の画像と同じ橋梁で、やや俯瞰気味に撮影した。ただし、こちらは補機付である。 電化開業の3年前のこの年になると、沿線にポールがやたらと立っており、物々しくなってきた。 この画像は、間もなく布原D51三重連が姿を消すという事から、”この狭い布原に約3千人のSLファンが集まった時(1972年3月12日(日)”から数えて、7年後の撮影である。 7年前の3千人に対して、この時はたった一人で撮影した。もちろん、この日、鉄道ファンに出会った事はなく、D51三重連の時代とDD51の時代の差が歴然としていた。 下り貨物列車の補機は、D51の時代と同様に後部補機であったため、生山→新見間の上り貨物列車の補機に乗務員乗車があった(重連総括ではなかった)。この画像でも次位機に乗務員が確認できる。 |
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布原(信)→新見 1979年3月13日 |
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11:1992レ・DD511024+DD51780+貨車 | ||||||||||||||||
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上の画像と同じアングルのDD51重連だが、こちらは午後の上り貨物列車・晴天時の撮影である。 先の画像の1990レ、この1992レともにデンスケでステレオ録音を並行したが、こちらの方が編成がやや長く、サウンドも迫力があった(列車の最後尾が、300m先の信号場の駅舎付近にある)。 この日も鉄道ファンに出会った事はなかった。ブルトレ・EF58・DF50・旧型電機等、様々な魅力的な車両が活躍していた時代であり、またDD51が当たり前に活躍していた事も一因だったと思える。 余談だが、この第23西川橋梁は、「アウトカーブ・俯瞰可能・橋梁・背景が山、川、水田・順光撮影可能(朝)」など、撮影好条件が揃っており、SLブームの時代にあれだけ人を集めた一因と思える。 |
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布原(信)→新見 1979年3月16日 |
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NO.11と奇しくも同じ組み合わせの重連だが、こちらを先に撮影した。 年末のためか編成が短いが、それでも重連となっているのは、下り貨物列車に後補機が付いていたためであろう(補機運用は、新見⇔生山間の往復)。 無蓋車や2軸貨車ばかりで組成される、貨物列車というのは、先頭に立つのがSLからDLに替わっただけで、「昭和の貨物列車」と思える。 また、この当時のDD51は正面窓Hゴム・白色が標準だった。現在残存している、DD51は皆黒Hゴムとなっており、印象がかなり異なる。 また正面・補助手すりが、白色ではなく、朱色となっている。ラジエーターカバーも、DD51・500番代最終グループとな異なり、「一体型」となっている。 |
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布原(信)→新見 1978年12月29日 |
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下り米子(操)行のDD51後補機付貨物列車が、苦ケ坂トンネルを抜け、”三重連の鉄橋”である、第23西川橋梁を渡るところである。 後補機はまだトンネルの中だが、25‰下り勾配を下り、布原信号場に滑り込む。 信号場は通過だが、SL時代同様に、絶気合図・給気合図は健在で、SLのように、汽笛がこだまするという感じではなかったが、この時も聞こえていた。 連結している、貨車に「木材チップ」の積載が見られ、”昭和”を感じる。 「EF64−1000+コンテナ車」編成が伯備線貨物列車の標準となって、20年以上経過しており、「DD51+混成貨車」の編成には、D51同様懐かしさを感じる。 ※先頭のDD51797は、JR貨物で廃車後、ミャンマーに渡った。現在も活躍中である。 |
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新見→布原(信) 1979年3月16日 |
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14:985レ・DD51+貨車+後DD51 | ||||||||||||||||
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上の画像と同時期の布原俯瞰撮影画像である。 新見→生山間で、貨物列車の後部にDD51補機が付いていた(牽引定数が330トン以下の場合は付かなかった)。 この画像は、列車が信号場通過中のものだが、本務機がポイントを通過したあたりから、”ピッピ”という、給気合図(D51の場合は、これからシリンダに蒸気を送る、給気運転に移る、という意味だったが、DD51の場合は、これからノッチを入れるという意味だった)が聞かれた。 それにしても、”箱庭そのもの”の地形であり、役者が替わっても魅力的な場所だった。かつて布原D51三重連があれだけ人を集めたのは、この風景のよさも一因だったと思える。 |
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布原信号場 1979年3月16日 |
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15:984レ・DD51798+DD51+貨車 | ||||||||||||||||
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伯備線完全DL化は、1973年(昭和48年)4月1日であった。 その完全無煙化の半年前、1972年10月2日時点で、新見機関区に配属されていたD51は15両であったところ、937号機を除き他は米子・浜田・津和野などに転属した。 この1972年10月2日(ダイヤ改正日)というのは、伯備線DD51の営業運転開始日でもあった。 見方を変えれば、伯備線においてD51とDD51が共存したのは、この日から1973年3月31日までの半年間であった。 その後は、画像のようにDD51が主力機の時代が、約12年続いた(1985年3月13日まで)。2018年で、EF64が主力機となって33年なので、相対的に短かったと言える。 |
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生山→下石見(信) 1978年12月29日 |
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完全無煙化された後、伯備線は陰陽連絡路線としてますます重要視されていたので、電化に向けて進んでいった(完全無煙化からわずか9年余の1982年7月1日、電化開業)。 しかしながら、電化開業直後の岡山機関区EF64は、2・9・40の3両のみだったので、前述のとおり1985年3月13日までは、谷田峠越えはこのようにDD51重連が主力だった。 谷田峠越えのDD51重連の牽引定数は、D51重連と同じ620トンだったが、25‰上り勾配を、29Km〜33Km/Hで上っていた(貨物列車運転時刻や荷重曲線による)。 D51重連は、22Km/Hだったので、それよりも若干高速で谷田峠を越えていた。 |
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生山→下石見(信) 1979年3月15日 |
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17:1992レ・DD511019+DD51794+貨車 | ||||||||||||||||
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谷田峠を越えた、上りDD51重連牽引貨物列車が25‰下り勾配を駆け下り、滑るように軽やかに通過していった。 この先新郷駅で、下り985貨物列車(DD51のプッシュプル)と列車行き違いをした。このような光景は、伯備貨物・DD51の時代の典型的なシーンであった。 D51であれDD51であれ、EF64であれ、中国山地のど真ん中、伯備線の分水嶺付近の新郷駅界隈において、貨物列車は実に迫力ある走りをしていた。 先頭の1019号機の手すりには、蒸気暖房用ホースが付いていたが、それはこの時期においては、SGを要する客車列車が新見以南で走っていたためである。 |
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上石見→新郷 1979年3月13日 |
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18:982レ・DD511018+貨車 | ||||||||||||||||
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単機牽引・22‰上り勾配という条件のためか、遠くから轟音を響かせて、DD51牽引貨物列車がやってきた。上石見駅に比較的近い場所である。谷田峠の鳥取県側は、田んぼのど真ん中の開けた場所が多いが、ここもそうであった。 この当時の移動手段は、「列車利用+徒歩」のみだったためか、比較的駅に近いポイントばかりで撮影していた。 この列車は、今は無き車運搬車「ク5000」形式(空車)を必ず連結していた。 並行してステレオ録音も行ったが、ウインドジャマーは付けておらず強風だったため、満足のいくものとはならなかった記憶がある。 この1018号機は、新製後ただちに岡山機関区に配属された。新見機関区D51置換用新製機の1両である。 |
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下石見(信)→上石見 1979年3月22日 |
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19:984レ・DD511017+貨車 | ||||||||||||||||
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雲一つ無い快晴の中、岡山機関区DD51牽引上り貨物列車が、伯耆富士大山をバックに駆け抜けて行く。 この場所は現在も撮影可能だが、米子自動車道開通後、やや背景がうるさくなっている。 この当時はまだ高速道路網が整備されておらず、また架線・架線柱も無く、背景・周辺がとてもすっきりしていた。 今思えば、DD51の後ろに二軸無蓋車が連なる列車というのは、模型の世界のようなのどかさがあった。 この撮影の6年前には、ここを行くD51牽引定期貨物列車・臨時客車列車(大社臨)が見られた。D51が消えてから久しいとも言えず、いつD51が走ってきても不思議はない雰囲気だった。 |
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伯耆大山→岸本 1978年12月26日 |
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20:985レ・DD51+貨車 | ||||||||||||||||
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NO.19と同じ場所だが、こちらは米子(操)に向かう、下り列車である。 生山駅で後補機を切離し、伯耆大山まではほぼ下り勾配である。 この列車が通過する頃は、日暮れが迫っており、このようにやや渋い感じとなる。 コンテナ車連結が殆ど無かったこの時代、どんな貨車をどれだけ連結しているかを見れば、時代背景も見えてくる。 余談だが、この日この場所で「キハ181系やくも号」も撮影したが、その際に地元の農業就業者の方に、声をかけられた。 ”大山はいい山だ!”という話に始まり、その「大山をバックに行く、やくも号」額付き全紙サイズ列車写真を依頼された。 翌年3月に再び撮影に訪れた際、届けた思い出がある。 |
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岸本→伯耆大山 1978年12月26日 |
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複線電化に伴う、井倉⇔石蟹間ルート変更・橋梁架け替えに伴い、現在は見る事ができない、旧第8高梁川橋梁を行く、DD51牽引下り貨物列車である。 二軸貨車ばかりの編成だった。D51の時は猛烈に煙を噴き上げた場所だが(NO.@ー5の画像と同じ場所)、DD51では淡い排煙であった。 ※電化開業直前の1982年6月15日、井倉⇔石蟹間は複線の別ルートに変更された。この画像撮影から約4年後の事である。 ※画像左下あたり、架け替える新橋梁の橋脚基礎工事に着手している様子が確認できる。 ※現在も背景の山々はあまり変わらないが、架け替えられた現在の橋梁は、列車の下回りが完全に隠れてしまうため、撮影は難しい。 |
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井倉→石蟹 1978年7月25日 |
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22:5593レ・DD51+貨車 | ||||||||||||||||
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NO.21にも記載したが、複線電化に伴うルート変更で、現在は廃線となってしまっている、井倉⇔石蟹間旧ルートを行く、下り貨物列車である。 このように、15両前後の貨物列車を撮影する場合は、きれいに編成が全て入った。「対岸に渡らない鉄橋」であった、足見橋梁である。 この場所は、新見以南の撮影地としては、布原同様に有名であった。 特に1972年3月12日(日)には、「サヨナラD51三重連」臨時旅客列車が走り、その際に数多くのSLファンが訪れたと言われている。 D51が消え、ディーゼルの時代になってからも改めて鉄道雑誌で紹介された。 夏場は草がかなり伸びるため、春秋などの方がよかったようである。 現在この橋梁は「サイクリングロード」に姿を変え、残存している。 |
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井倉→石蟹 1978年7月25日 |
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23:484レ・DD511022+貨車 | ||||||||||||||||
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NO.41と同じ足見橋梁であるが、こちらは上り列車である。 この橋梁を撮影する場合、このように井倉側からだと、夏場でも草は比較的目立たなかった。 山陽新幹線岡山開業後、陰陽連絡のメインルートの地位を確立した伯備線であるが、非電化時代は、このように模型の世界のようなのどかさを感じられる場所が、いくつか存在していた。 分水嶺近くの新郷駅・上石見駅付近を境に、北は日野川およびその支流・南は高梁川およびその支流に沿うように敷設された、伯備線はまことに風光明媚と言える。 当時を振り返って、改めてこのような画像を見ると、現在の伯備線EF64−1000牽引貨物列車を追う、鉄道ファンを多く集めるのが頷ける。 |
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石蟹→井倉 1978年7月25日 |
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新見機関区扇形庫で休む、DD51・DE10である。 この撮影の6年前、1972年3月頃までは、それぞれの置き換え前のSL:D51・C58が並ぶ姿が見られた※。 扇形庫とDLの組み合わせは、SL同様によく似合う印象だった。完全無煙化から5年経過したこの時、私以外に訪問者は無く、機関区の方から”とても珍しい”という印象を持たれたようだった。 電化工事により電車留置線が整備される事になり、この扇形庫もこの画像撮影の2年半後の1980年秋頃、惜しまれて取り壊された。 ※新見機関区C58は、D51よりも1年早く姿を消し、1972年3月15日のダイヤ改正後は見られなくなった。 |
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新見機関区 1978年3月29日 |
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25:新見機関区に集うDD51・DE10 | ||||||||||||||||
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NO.24と同じ日・同じ新見機関区だが、こちらは留置線である。 SL時代のピットは残存していたほか、給炭台が無くなっている事以外は、SL時代の面影を残していた。 この時は、画像左側に、新しい建物が建築中であったが、それは現在も使用中のようである。 伯備線がキハ181系・DD51の時代の真っただ中であったが、時代は確実に電化に向けて動いていた。 D51三重連が健在の頃は、数多くのファンを布原信号場同様に多く集めた、新見機関区であったが、この頃はファンの姿は殆どなかったと思われる。 それを示すかのように、この時期の新見機関区の画像や、記事を殆ど見かけない。 |
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新見機関区 1978年3月29日 |
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新見発足立行の短編成の貨物列車が、終着足立駅に到着したところである(ホーム先端から撮影)。 この列車は、D51の時代は「逆D51+貨車」の編成で、時速45Kmの速度制限があった。 今思えば、「逆D51」の運転は、本当に”職人技”であったと思える。 C56のように切り取られたテンダではないため、進行方向前方の見通しが全く利かず、信号・前方確認は、運転室窓から頭や体を乗り出して行うしかなかったからである。 画像左側の川は、高梁川支流の西川で、伯備線にはこれを渡る橋梁が、23個もある。 第1西川橋梁は、新郷⇔足立間にあり、布原D51三重連で超有名になった第23西川橋梁は、布原(信)⇔新見間にある。 |
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足立駅 1980年9月12日 |
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27:982レ・DD51782+貨車 | ||||||||||||||||
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お馴染みの第23西川橋梁だが、こちらは午後の貨物列車である。 有名なこのポイントからは、完全に逆光となる。 電化開業まで2年を切ったこの頃になると、架線柱はほぼ揃っていた。ただし、架線はまだ張られていなかった。 しかしながら、カーブの外側に架線柱を建立する事が原則なのか、同時に敷設されたケーブルも含めてカーブの外側に敷設された。 従ってこの時期から”三重連の鉄橋”は、ベストなお立ち台ではなくなった。 この982列車は、必ずDD51の次位に「荷無し状態のク5000形式」が連結されており、印象深いものだった。 |
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布原(信)→新見 1980年9月12日 |
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28:1992レ・DD51+貨車 | ||||||||||||||||
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第23西川橋梁を、河原岸で撮影したものである。 D51三重連をこの位置から撮影した写真も、よく鉄道雑誌等で見かけたが、河原からであっても手前に架線柱があるため、目立ってしまう事が分かる。 画像の左から1番目と2番目の橋脚であるが、D51三重連が消えた後から補強工事がされた。 D51三重連が消えて9か月後の1972年12月に、ここを訪れたが、日曜日にもかかわらず、大きな音を立てて橋脚工事中であった事を覚えている。 本来であれば、左から3番目の橋脚補強工事のあった、1970年2月頃の後、引き続き行われる予定であったが、”増加してきた、D51三重連撮影者に配慮をしてほしい”との声があり、D51三重連が消えるまでは工事されなかったと聞いた。 |
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布原(信)→新見 1980年9月12日 |
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NO.@ー10と同じスジで、足立発新見行・小運転貨物列車である。 これはD51牽引の時から約8年後の撮影で、下りやくも号待ち合わせのため、布原信号場停車〜出発のという流れ・貨車両数(3〜10両程度)は、変わってはいなかった。 D51の時も猛烈な煙を噴き上げたが、DD51になってもこのように、猛烈な排気煙を上げていた。 この時もステレオ録音を並行したが、運転士さんがマイクに気付いたのか、目の前で長い笛を鳴らしながら、荷ケ坂トンネルに進入していった。 ※この頃は、昼間のヘッドライト点灯はなかった。 ※全国各地にDD51形が活躍していた時期だけに、0番代の「非重連タイプ」やこの520号機のように、「半重連タイプ」のものなど、様々なDD51が見られた。 |
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布原(信)→新見 1980年9月12日 |
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30:984レ・DD51540+貨車 | ||||||||||||||||
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約20両の貨車を牽引して、25‰上り勾配を上る。 この場所は、午後から逆光・半逆光となるが、背景のよさ・駅(信号場)から近い事・D51三重連思い出の場所などの理由で、何度も訪れていた。 生山⇔新見間は、DD51単機牽引で定数330トンであるから、連結両数から見ると、おそらく定数に近かったと思われる。 そのためか、猛烈に排気煙を出している。 この日は、982レ〜1992レ〜792レ〜984レと撮影したが、いずれも単機牽引(792レは常時単機牽引)だった。 単機牽引貨物列車は、重連と比較すると写真写りはやや物足らないが、録音はむしろ迫力あるものとなる。 |
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布原(信)→新見 1980年9月12日 |
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既に電化開業準備がほぼ完了し、EF64試運転が始まった、時期の撮影である。 DD51重連は、電化開業後も約2年8か月存続し、1985年3月14日ダイヤ改正で、伯備線貨物列車主力機がEF64化されるまで続いた。 それは、DD51を置き換えるためのEF64・0番代の岡山機関区配置が当初わずか3両だったためである。 この撮影の10年前までは、D51三重連撮影の絶好のポイントとして、雛壇まで整備された「お立ち台」からの撮影だが、この頃はまだ草木の伸びない、夏場以外であればこのように撮影可能だった。 2018年現在においても、架線柱・ケーブル等は当然そのままだが、樹木の成長に伴い、この位置からの撮影は不可能となっている(極小スペースの河原や鉄橋端線路脇のみ撮影可能)。 |
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布原(信)→新見 1982年2月16日 |
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32:試9752レ・EF6479+DD51 | ||||||||||||||||
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NO。31と同日、同じ場所で撮影した、EF64試運転である。 電化開業まで5か月弱と迫った時期だが、既に架線が張られ、通電状態だった。 NO.45〜NO.49の画像撮影時から、約1年半経過後の撮影だが、1年半で大きく進展していた。 EF6479号は、当時の甲府機関区から借り入れの0番代ラストナンバーである。 次位のDD51は完全ぶらさがりで、アイドリング無しだったように記憶している。 布原信号場は短い停車の後、気笛一声で出発〜苦ケ坂トンネルも口笛のような、甲高い音を鳴らして進入していった。 次位DD51のランボードなどに、職員の方々の添乗が確認できるが、こういう時代だったのだと改めて感じる。 |
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布原(信)→新見 1982年2月16日 |
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NO.32の画像撮影から6日後、今度は死重扱いの後部DD51・ホキ等を連結して、600トン牽引試験が行われた。2月16日とは異なり、15号機の牽引で行われた。 この撮影の10年前は、D51重連やDD54+次D51の編成が貨物列車の先頭に立っていたが、まさに「10年ひと昔」であった。 「貨物列車牽引機の変遷」において、同じ勾配線である篠ノ井線と同じであった(D51重連またはDD51+次D51→DD51重連→EF64・0番代)。 ただし、完全無煙化・DL化〜電化の流れにおいて、篠ノ井線は完全無煙化からわずか3年5か月で電化開業だった。 伯備線は、完全無煙化から9年3か月後の電化開業であった。 |
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下石見(信)→上石見 1982年2月22日 |
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上り貨物列車が生山駅を出発すると、いきなり25‰上り勾配が始まり、現在のEF64はもとより、D51・DD51ともども、20Km〜33Km/Hの速度で谷田峠越えに挑んでいた。 生山→上石見間は8.7Km。この区間、D51重連は25分(表定速度:21Km/H)、DD51重連は16分(表定速度:33Km/H)で挑んでいた。現行のEF64は、列車により若干差があるものの、単機で14分程度で走行している(表定速度:37Km/H)。 DD51・DD54とD51との勾配区間均衡速度の比較では、前者が約10Km/H上回っていたが、これは、前者が速度帯域にかかわらず、ほぼ最高出力を発揮できる特性によるものだった。 ※DD54の動輪周最大出力は1250PSで、石炭焚D51とほぼ同等。 |
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生山→下石見(信) 1982年2月19日 |
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35:991レ・後補機DD51546+貨車 | ||||||||||||||||
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本務機DD511026牽引下り貨物列車を、後追い撮影したものである。 布原信号場通過後、再ノッチ投入で、15.2‰上り勾配を加速していくため、猛烈に排気煙を上げている。 電化開業1か月余り経過した時点での撮影だが、貨物列車用のEF64形が、この時点では40号機しかなく、主力機は依然として完全にDD51形であった。 架線柱・架線・DD51牽引の3条件を除けば、1973年(昭和48年)3月までの伯備線D51牽引貨物列車と大差ない印象だった。 近年収録した、「谷田峠越え・DD51重連+ロンチキ」(足立→新郷間)で実証済だが、この後補機付き列車の谷田峠越え走行音も、さぞ迫力あったであろう。 |
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布原(信)→備中神代 1982年8月20日 |
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伯備線電化開業日(昭和57年7月1日)の新見機関区DD51補機運転時刻表である。 DD51形補機は、1985年3月14日ダイヤ改正で伯備線補機が廃止・岡山(操)⇔米子(操)間直通貨物列車の完全EF64化がなされるまで、続いた。 DD51形のプッシュプル運転は、2018年現在では全く見られないが、この当時は伯備線や関西本線でも見られた。 注目すべきは、やはり25‰上り勾配区間での所要時間で、例えば足立→新郷間下り列車では9分45秒である(D51形のプッシュプルは16分)。 |
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上り貨物列車において、生山→上石見間は、16分運転であった事が上記の運転時刻表で分かる。 「上り貨物列車:生山→新見間・DD51重連」となる以前は、この区間:「D51重連:25分」「本務DD54+次位補機D51:18分」「本務DD51+次位補機D51:18分」の所要時間であった。 液体式ディーゼル機関車は、速度帯域にかかわらずほぼ最高出力が発揮できるのが特徴で、D51を補機として連結した場合、上り勾配運転均衡速度を引上げ、谷田峠越えの運転速度を高めていた。 |
伯備線電化開業日付 1982年7月1日 |
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37:8D・まつかぜ2号と992レ・DD511018+貨車 | ||||||||||||||||
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電化開業から1年4か月経過した時点の米子駅スナップである。 真ん中の通過線は、貨物列車発着が伯耆大山駅に変更されている、現在においては撤去されてしまっている。 左側のまつかぜ号は山陰本線特急だが、現在では全く見られない、キハ181系がまだ特急列車の主力の時代だった。 伯備線貨物列車においても、EF64−0番代が入線していたが、まだまだDD51が主力だった。 この時は、岡山機関区DD51が2軸貨車主体の貨物列車を牽引して、ゆっくりと通過していった。 ちなみに、この頃は山陰本線東部・福知山線の電化開業はしておらず、旧型客車列車も多く、米子機関区DD51配置量数は全国一の84両を数えた。 |
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米子駅 1983年11月23日 |
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38:4963レ・DD511026+貨車+後補機DD511025 | ||||||||||||||||
新見駅を出発して約2.6Km進んだ、大カーブ(半径:300m)を行く、下り貨物列車である。 上記の乗務員時刻表のとおり、新見→布原間(3.9Km)の所要時間は7分だった(表定速度:33Km/H)。 この撮影時の印象は、荷が比較的軽かったためか40Km/Hぐらいの速度が出ていたのでは?と思えた。 以前に、ここを行く「D51後補機付貨物列車」の録音を聴いていたので、DD51になって明らかに速度が速い、と感じた。 今走っていれば当然注目を集めるであろうが、この頃は”中国地方のDD51全盛期”であり、周囲も「国鉄型車両オンリー」で珍しくなく、鉄道ファンとすれ違った事はなかった。 |
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新見→布原 1984年9月23日 |
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39:4963レ・後補機DD511025 | ||||||||||||||||
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苦ケ坂トンネル入り口まであと300m。サミット間近という事で、懸命に押し上げる後補機:DD51である。上にまっすぐ上がっている、排煙が力闘を物語っている。 近年まで走っていた、石北本線DD51の「金華→常紋(信)間・8072列車」が、走行音がよく似ている印象を受けた。 あと、当時の岡山機関区運用で全国唯一でかつ特徴的だった事は、電化開業後から補機廃止の1985年3月13日まで「EL/DL共通運用」が存在した事である。 従って、現在の3082レに相当する、4964レでは「前DD51+本務EF64+貨車」という編成を見る事ができた(私自身は、残念ながら未撮影)。 |
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新見→布原 1984年9月23日 |
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B伯備線・EF64−0番代の時代 | ||||||||||||||||
1:電化前展示/381系とEF6440 | ||||||||||||||||
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電化開業の1年4か月前、一足先に電化後に使用される、電気車両の展示があった。 とにもかくにも、山陰地方の国鉄では初めての電化のためか、注目度は高く、地元ローカルTVニュースでも報道された。 EF6440号機は、1979年6月に、甲府機関区から岡山機関区に転属していたが、1979年11月に米子機関区に貸し出しとなっていた。 従って、この画像は米子に貸し出されていた時のものである。 この撮影の5か月後、1981年8月に岡山機関区に戻っている。 1982年7月1日の伯備線電化開業直後のEF64は、この40号機を含め3両(2・9・40)であった。 なおこの撮影時、EF6440の後方に、115系も展示されていた。 |
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米子駅(東方) 1981年3月16日 |
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2:4965レ・EF649+貨車 | ||||||||||||||||
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電化開業1年10か月後の、EF64−0番代牽引下り貨物列車である。 岡山機関区EF64配置は、先に記載したとおり、当初3両(伯備線電化開業直後)であった。そのため、電化開業後もしばらくは貨物列車の主力はDD51であった。 この9号機も、電化開業4か月後の1982年11月19日付けで、篠ノ井機関区から岡山機関区にやってきた。 仕業数も少なかったが、この列車は、EF64限定運用であったと記憶している。 EF64限定運用のため、当然新見→生山間の補機は付かなかった。 ●EF64牽引定数:60(600トン) ●DD51牽引定数(新見⇔生山):33(330トン) ●DD51×2牽引定数(新見⇔生山):62(620トン) |
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米子駅 1984年5月18日 |
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1985年(昭和60年)3月14日のダイヤ改正で、伯備線貨物列車は、米子(操)⇔岡山(操)間直通列車が完全EF64化された。 これに伴い、新見⇔生山間の補機は廃止され、長年見る事のできた、伯備線上り重連牽引貨物列車・下り後補機付貨物列車は見られなくなった。 また岡山機関区EF64−0番代配置量数も、従来の3両から8両(1・2・3・8・9・11・12・40)に増加した。 しかしながら、この時点ではまだコンテナ列車化はされておらず、2軸貨車主体の列車編成だった。 この画像は、電化開業後約3年経過した時のもので、この翌日に「電化開業3周年記念・EF64三重連客車列車」が走った。 |
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新郷→上石見 1985年8月2日 |
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4:9933レ・EF64三重連(3+2+1)+12系 | ||||||||||||||||
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伯備線電化開業3周年を記念して、岡山⇔足立間往復で運転された、EF64三重連牽引臨時客車列車である。 この時点で、岡山機関区DD51・EF64共通運用で、岡山⇔新見間に定期旅客列車が2往復運転されていたが、もちろん重連・三重連での運転ではなかった。 1972年2月・3月に、岡山→新見間で、D51三重連牽引客車列車は、合計8回運転されたが、EF64三重連は、この日限りであった。 1985年3月以降、岡山機関区EF64は8両態勢となり、若いナンバーの1〜3号機も揃っていた。その3両が手を繋ぎ三重連となった事で、大きな話題となった。 下り列車先頭の3号機は、リボン風のヘッドマークが取り付けられていた。 |
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備中川面→方谷 1985年8月3日 |
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NO.4の画像の列車の復路である。 往路と異なり、EF64のトップナンバーが先頭であった。ヘッドマークも「伯備線電化開業3周年」と明記され、「三重連」の大きく記載されていた。 ステレオ録音を並行したが、気笛は2声だった。先頭1号機と2番目の2号機が鳴らしていたが、3番目の3号機は完全ぶらさがりでジョイント音しかしていなかった。もちろん気笛無しだった。 余談だが、”三重連と言えば、昔から布原信号場が定番”であったが、行かなかった。 撮影は夕方で完全逆光になる事、布原信号場通過の設定であったため、迫力がやや落ちる事、アウトカーブ側にケーブル・架線柱などがあり、撮影不向きとなってしまっていたなどの理由だった。 |
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新見駅 1985年8月3日 |
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6:4963レ・EF642+貨車 | ||||||||||||||||
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2号機は、伯備線電化開業直後(4か月後)、1982年11月17日、稲沢第二機関区から転属してきた。 この機関車も、1986年11月1日の改正で、EF64−1000番代化がされた関係で、配属から約4年後の1987年3月25日付けで名古屋南運転区に異動した。 この撮影時、1985・3・14改正(伯備線全線走破貨物列車完全EF64化)後、岡山機関区EL2組(使用形式EF64)は、仕業番号51〜55の5仕業があった。 また、岡山機関区ELDL1組(使用形式EF64・DD51)は、仕業番号101・102の2仕業(943−944・941−942の普通客車列車)があった。 この時期は、貨物列車のEF64化が大きく進んだものの、コンテナ列車化はされていなかった。 |
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新見駅 1985年5月4日 |
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7:4963レ・EF642+貨車 | ||||||||||||||||
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NO.6と同一のEF64牽引貨物列車が、上り特急やくも10号と列車行き違いをするところである。 381系とEF64・0番代の列車行き違いが見られた事は、当時の中央西線・篠ノ井線と同様であった。 この時は、やくも号・貨物列車ともに気笛一声で出発していった。1989年3月、基本的に山陰地区では出発気笛が廃止されたようだが、この頃はまだあった。 この撮影から33年経過した、2018年現在において、使用形式は変更はないが、時代の変化とともに細部はいろいろと変化している。 ●貨物列車の変化(主要なもの) @使用形式:EF64・0番代→EF64・1000番代(更新機) A発着停車場:米子操車場→伯耆大山駅 B全貨物列車をコンテナ列車化 |
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黒坂駅 1985年5月4日 |
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8:EF6411とDD511112 | ||||||||||||||||
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1974年11月までは、この米子機関区では、SL:D51とDL:DD51との並びが見られた。 その8年後、1982年7月伯備線・山陰本線(知井宮⇔伯耆大山)電化開業後は、このように、DL:DD51とEL:EF64・0番代の並びが見られるようになった。 この撮影の33年後の2018年現在においては、EF64形の発着する停車場が、米子地区では伯耆大山駅に変わった事、DD51形配置量数の激減(1985年3月:81両→2018年3月:2両)などの理由により、全く見る事はできない。 このようなELとDLの並びの光景は、後藤総合車両所(撮影時は米子機関区)においては、完全に過去のものとなってしまった。 ●許可を得て撮影 |
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米子機関区 1985年11月23日 |
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9:EF641 | ||||||||||||||||
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1号機は、この撮影の前年の3月8日、八王子機関区から転属してきた。 この1号機も伯備線全線走破貨物列車の完全EF64化・生山⇔新見間補機廃止のため、岡山機関区に追加投入された、5両のうちの1両である。 そしてやはり1986年11月1日の改正で、EF64−1000番代化がされた関係で、約2年後の1987年4月1日付けで下関運転所に異動した。 NO.4・5に、1〜3号機の三重連の画像を掲載したが、伯備線EF64・0番代の歴史自体わずか4年4か月(貨物列車牽引用として、臨時客車列車用としての用途は除く)であったため、三重連はその1日限りであった。 |
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米子機関区 1986年3月9日 |
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8号機は、この撮影の年の3月11日、篠ノ井機関区から転属してきた。 伯備線全線走破貨物列車の完全EF64化・生山⇔新見間補機廃止のため、岡山機関区に追加投入された、5両のうちの1両である。 1986年11月1日の改正で、EF64−1000番代化がされた関係で、約2年後の1987年3月15日付けで高崎機関区に異動した。 電化前の時点で、381系電車とEF64形の伯備線への導入は決まっていた。 しかしながら、EF64形については、”元祖EF64形”とも言える0番代の伯備線での活躍(定期列車)は、4年4か月と、思いのほか短かった。 なお、EF64−0番代による臨時貨物列車牽引は、1987年2月まで存在した。 |
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岡山機関区 1985年8月3日 |
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11号機は、この撮影の前年の3月9日、八王子機関区から転属してきた。 この11号機も伯備線全線走破貨物列車の完全EF64化・生山⇔新見間補機廃止のため、岡山機関区に追加投入された、5両のうちの1両である。 そしてやはり1986年11月1日の改正で、EF64−1000番代化がされた関係で、約1年半後の1986年10月26日付けで稲沢機関区に異動した。 この頃は、山陰本線城崎(現城崎温泉)⇔福知山間・福知山線電化開業直前であり、旧型客車列車をはじめ、まだまだ数多くの客車列車が山陰本線に健在であった。 そのため、この伯備線貨物列車以外にもそれらの列車を見る事が出来て、趣味的には楽しいところであった。 |
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伯耆大山→東山公園 1986年7月20日 |
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12号機は、この撮影の前年の3月15日、八王子機関区から転属してきた。 この12号機も伯備線全線走破貨物列車の完全EF64化・生山⇔新見間補機廃止のため、岡山機関区に追加投入された、5両のうちの1両である。 そしてやはり1986年11月1日の改正で、EF64−1000番代化がされた関係で、岡山機関区配属の約1年半後、1986年10月27日付けで稲沢機関区に異動した。 余談であるが、EF64・0番代の送風機・ブロア音は、EF64・1000番代・ブロア音よりも音が大きく、男性的な力強さがある。 1000番代は、この音を静かにするため、設計変更されたと聞く。 1000番代の相対的に静かな女性的な柔らかいブロア音も、それはそれで魅力がある。 |
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新見駅 1985年8月3日 |
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13:阿哲峡を行く、4963レ・EF64 | ||||||||||||||||
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EF643号機牽引の下り貨物列車である。 @ー6・Aー2と同地点であり、「定点観測」画像となっている。 画像では分かりにくいが、やや強い雨であり、録音は断念した記憶がある。 D51の2.6倍のパワーを誇る、EF64形※であるが、布原信号場通過後、半径270mの急カーブ〜15.2‰上り勾配のため、D51・DD51それぞれの時代同様に、ここはゆっくりと通過して行った。 唸るMT52釣掛モーター音が、ここでも印象的であった。 ※動輪周最大出力 ●D51(石炭焚):1280PS ●D51(重油併燃):1590PS ●DD51:1540PS (エンジン出力:2200PS) ●EF64:3360PS |
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布原(信)→備中神代 1986年7月19日 |
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14:阿哲峡を行く、4963レ・EF64 | ||||||||||||||||
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下り貨物列車を、旧国道182号線から俯瞰撮影したものである。 長い編成ではないので、D51・DD51であっても単機牽引となるであろうが、米子操車場行き貨物列車が全てEF64牽引となってからは、全貨物列車が単機牽引であった。 「国鉄色EF64・0番代+非コンテナ貨物列車」の編成は、”昭和の貨物列車”と言えるであろう。 箱庭のような美しい風景をバックに、模型の世界のような編成の貨物列車が駆けて行く姿は、D51でなくともとても印象的なものであった。 余談であるが、画像の先頭・EF64が通過中の第20西川橋梁の橋脚も、第23西川橋梁同様に補強されているのが確認できる。 昭和40年代に撮影された、ここを行く「逆後D51付き貨物列車」を見ると、これよりかなり多い20〜30両の貨車を連結している。 |
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布原(信)→備中神代 1986年8月16日 |
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15:阿哲峡を行く、4963レ・EF64 | ||||||||||||||||
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NO.13の画像の橋梁から一つ備中神代側の橋梁、第19西川橋梁を渡り、鳥越トンネルに入るEF64である。 次位に連結された貨車が、2軸無蓋車であり、昭和の貨物列車らしい印象である。 ステレオ録音を並行したが、比較的速度は速く、長い気笛を鳴らしてトンネルに吸い込まれていった。 この撮影の14年前、同一アングルで「783レ・足立行・逆D51524+貨車」を撮影したが、芳しくなかったため、リベンジで・EF64とDD51を同日に、全く同一のアングルで撮影した。 繰り返しになるが、伯備線は橋梁とトンネルの連続であり、背景の美しさも相まって、同一場所を何度訪れても飽きないものである。 |
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布原(信)→備中神代 1986年9月6日 |
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16:阿哲峡を行く、991レ・DD51 | ||||||||||||||||
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NO.14と同一日・同一アングルの、DD51牽引足立行小運転貨物列車である。 緩急車の連結があり、これも”昭和の貨物列車”らしい印象である。 1985年3月14日ダイヤ改正で、岡山機関区DD51の運用は大きく減少し、DD51単独仕業数は2仕業(111・112)のみとなった。 この991列車と折り返しの992列車は、111番仕業であった。 ちなみに112番仕業は、岡山(操)⇔庭瀬間・後4084レ−1084レであり、側線に架線が無いため、EF64ではなくDD51牽引とされた。 1986年10月、当時の国鉄飾磨港線廃止に伴い、111番仕業の991・992列車は廃止となった。 1986年11月1日のダイヤ改正で、岡山機関区DD51の仕業は無くなった。 |
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布原(信)→備中神代 1986年9月6日 |
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17:岡山機関区DD51最後の活躍@ | ||||||||||||||||
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出発を待つ927M・115系と、足立行991列車・DD511021である。 この列車の編成は、米子操車場まで行く直通貨物列車と比較すると相対的に短く、常に10両以下だった。 この撮影時、山陰本線では旧型客車列車が多く設定され、米子機関区DD51配置両数も81両を数え、”DD51の時代”の真っただ中であった。 反面伯備線では、1985年3月14日ダイヤ改正以降、既にDD51の時代は終わり、完全に”EF64の時代”に移行していた。 岡山機関区DD51形は、脇役に回っていた。 927Mは、米子側先頭に「クモニ143形」を連結しており、この画像でも確認できる。 |
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新見駅 1985年5月4日 |
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新見運転区で休む、DD51・DE10である(左からDE10・DD511023・DD51885)。 この年の3月14日ダイヤ改正で、伯備線貨物列車の主力がEF64・0番代となったため、それまで主力であった、岡山機関区DD51形は多くが休車となった。 この撮影時点で、EF64・0番代とDD51共通運用で、伯備線岡山⇔新見間普通客車列車2往復の仕業があったため、この画像中央のDD511023号機は、その仕業に就いていた。。 一方で、岡山機関区構内では、休車になったDD51形が、数量単位の連結状態で留置されていた。 この撮影日で稼働していたDD51形は、配置13両中、わずか3両(1018・1019・1023)のみで他は1休・特休であった。 |
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新見運転区 1985年8月3日 |
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19:岡山機関区DD51最後の活躍B | ||||||||||||||||
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新見駅出発後、約3Km続く急勾配を上り、苦ケ坂トンネルを抜けると、この第23西川橋梁を渡る。 いわゆる、”D51三重連の鉄橋”であるが、これは逆アングル、旧国道からの撮影である。 模型の世界のような、のどかさのある短編成だが、やはりD51三重連・2492列車も連結していた、最後尾のホキ7000形貨車2両が印象的であった。 画面左上付近がD51三重連の撮影地として賑わった場所だが、草木の生い茂る夏場でもあったため、D51三重連が消えて14年経過したこの時点で、ほぼ元の状態に戻ってしまっていた(夏場の旧お立ち台からの撮影は、不可能となっていた)。 国鉄型車両が当たり前だったためか、岡山機関区DD51が最後の活躍をしていたにもかかわらず、鉄道ファンに出遭った記憶が無い。 |
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新見→布原(信) 1986年7月19日 |
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20:岡山機関区DD51最後の活躍C | ||||||||||||||||
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足立駅で出発を待つ、992列車である。 生石灰を積載したホキ7000形2両を連結している。 1986年10月、飾磨港線廃止に伴い、このホキ7000形による石灰石輸送も終了するが、その3か月前の姿である。 1970年代前半までは、足立→飾磨港間に、10〜15両編成の石灰石専用列車が2本設定されていた。 しかしながら、時代の変化〜鉱石輸送のトラック化に伴い、本数削減・短編成化〜廃止の道を辿る事になってしまった。 1993年頃から、岡山操車場⇔米子操車場(伯耆大山)間の貨物列車に関しては、ずっと4往復の設定が不変であり、せめてもの救いである。 |
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足立駅 1986年7月19日 |