| 伯備貨物小史 | |||
| 私は50代となった今でも普段から伯備線にDD51牽引臨時列車が走るとなると、現役のEF64牽引貨物列車とともに自分なりに記録してはいますが、時折D51やDD51が主役だった頃を思い起こす事があります(個人的には、初めて乗車した伯備線列車が、D51三重連牽引客車列車だった事が、大きいです)。 そこで、今の若いファンの方々に”昔の伯備貨物はこうだった”という事を少しでも知っていただきたく、ご紹介したいと思います。 |
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| 6465レ・D51376+D51797+貨車 | |||
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今は複線の橋梁に架け替えられた、井倉駅を出てすぐの第8高梁川橋梁です。井倉駅で機関士さんと少し話をしていると、”鉄橋の方へ行っておれ。煙を出してやるから…”と言われて、ここにたどり着きました。客観的に見れば、トップライト・逆光条件ですが、当時中2の私としてはこれが精一杯で、”約束どおりの猛烈な煙”に感動のあまり、ベストアングルも逃してしまいました。 それでも、撮影後力一杯機関士さんお二方に手を振ると、激動しているであろうD51のキャブから、ともに敬礼していただき、しばし呆然として、胸が熱くなりました。 ※この時期、D51三重連は消えていたものの、D51重連は6本残っていました。 |
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| 井倉→石蟹 1972年8月18日 | |||
| 6465レ・D51376+貨車+逆後D51524 | |||
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上と同じ列車ですが、岡山(操)→新見間がD51重連で、新見→生山間は後部にD51の補機が逆向きに連結された、プッシュプル運転でした。 生山までの補機が逆向きに連結された理由は、当時の生山駅にはD51用の転車台がなかったためです(ただし、現在は撤去されていますが、構内上菅側に「米子⇔生山間区間列車用の8620形用手動式転車台」はありました)。 現在の伯備貨物は、EF64単機で600トン牽引可能ですが、D51・DD51は、新見⇔生山間の牽引定数:単機・330トン、重連・620トンでしたので、長い編成の貨物列車には補機が必要でした。 |
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| 布原(信)→備中神代 1972年8月18日 | |||
| 462レ・DD54+次D51889+貨車 | |||
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※撮影者不明の所蔵写真を、今回の投稿のためあえて使用させていただきました。ご了承下さい。 あまり知られていませんが、”悲運のDL”である、DD54形が米子(操)⇔新見間に、1年間(1971・10・1〜1972・10・1)入線し、伯備貨物の本務機および客車列車牽引に活躍しました。ただし、D51・DD51がともに「動輪上重量:60トン」であるのに対して、DD54のそれは56トンで、相対的に空転しやすく、「DD54形による伯備線全面無煙化は困難」と判断されて、岡山区DD51にバトンを渡して、山陰・播但線無煙化用に転用されました。 ※格好いいDLでしたが、推進軸や変速機トラブルが絶えず、1978年6月に引退しました。 |
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| 布原(信)→新見 1971年11月16日 | |||
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| 伯備線完全無煙化1週間前のD51838の勇姿です。 下り込みで煙は出ないのは分かっていましたが、鳥取県側の米子(操)⇔生山間ではD51は殆ど見られなくなっていましたので(夜間・早朝の2往復の貨物列車のみ)、記録しておきたく伯耆溝口駅近くで撮影しました。 江尾駅出発は当時の時刻表を見ると、6時3分、伯耆溝口駅通過は6時16分。早朝の曇という条件の中、D51の姿は見えないのに何度も何度も汽笛が聞こえてきました。これは、物凄く幻想的な光景でした。 一度この列車他の谷田峠に挑む迫力あるサウンドを録音したいと思っていましたが、中2の身分では叶わず終わりました。 |
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| 伯耆溝口→岸本 1973年3月25日 | |||
| 待機するD51376と922レ・DD51 | |||
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1972年10月、米子機関区DD54のバトンを受けて、岡山機関区DD51による伯備線無煙化が進みました。新幹線岡山開業の1972・3・15〜1972・10・1の約半年間は、新見⇔岡山間無煙化推進用として、DE10重連(常時重連)が進出していましたが、1972・10・2以降は、伯備線全線でDD51が活躍を始めました。以降完全無煙化まで、半年間D51とDD51が共存しました。 これは、米子操車場発の1492列車(現在の3082列車のスジ)の前補機となるため、待機しているD51とDD51牽引客車列車のスナップです。完全無煙化前の象徴的なシーンとも言えます。※SLブーム当時は、敷地内撮影は黙認状態でしたので、ご了承下さい。 |
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| 生山駅 1973年3月25日 | |||
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| 上の画像のD51376が、1492列車の前補機(生山→新見間)となって谷田峠を越えてきて、布原信号場を通過したところです。 1973・3・1からは、石蟹⇔岡山(操)間が一足先に完全無煙化されていました。そこで、当時の新見機関区では、「布原信号場付近」を伯備線D51最後の撮影適地として、SLファンに薦めていたと聞きました。 この時期、谷田峠越えの貨物列車は、殆どが「DD51+次D51」の編成であったところ、この列車のみ前D51だったので、人気があったようです。 しかしながら、この撮影の1年前にD51三重連が消えてからは、伯備線を訪れるSLファンは激減し、この列車をここで見送ったのは20人程度でした。 |
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| 布原信号場 1973年3月25日 | |||
| 1496レ・DD51+次D51837+貨車 | |||
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伯備線完全無煙化までの半年間、谷田峠越えの貨物列車で見られた、典型的な重連です。今思えば、D51三重連よりもむしろ貴重なシーンですが、当時のSLファンからは「前DL」というのは、かなり嫌われていました(播但線の前DD54+C57も同様でした)。 伯備線D51最後の半年間において、谷田峠越え・D51重連貨物列車(474列車)も残っていましたが、それは深夜の時間帯に走る列車でした。考えられる理由は、この当時、キハ181系特急やくも号が4往復設定されており、少しでも気動車との並行ダイヤが可能なように(勾配区間の速度向上)、DD51が本務機となる貨物列車を、昼間の貨物列車に設定したためと思われます。 |
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| 布原信号場 1973年3月25日 | |||
| 6465レ・DD51+貨車+逆後D51256 | |||
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1972・10・2ダイヤ改正で伯備線全線にDD51が登場した後、以前D51どうしのプッシュプルだった、この6465列車も本務機がDD51に替わりました。この列車は、現代のコキ71形に相当する、車運搬車:ク5000形を連結しているのが印象的で、この時もDD51の次次位に連結していました。 信号場通過のため、減速して軽やかなエンジン音を響かせて、まずはDD51、そして続く貨車が通過し、最後に血相変えた雰囲気で逆向きのD51が通過しました。石炭焚D51とDD51との出力比較では、DD51が若干パワーが上回る(20%〜30%)ためか、この時もD51が”引っ張られている”感がありました。 |
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| 布原(信)→備中神代 1973年3月25日 | |||
| 465レ・DD511020+貨車+後DD51793 | |||
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伯備線完全無煙化から約5年後、上の画像撮影からも5年経過した後の同一列車(列車番号は、定期列車に変わっていました)です。撮影地点は異なりますが、同じ場所を行くところです。 1972年8月に、全く同じ場所でD51どうしのプッシュプルを撮影した事もあって、D51と比較したい”という思いから、とても新鮮に映りました。この頃はまだ電化工事は始まっておらず、ポールは建っていませんでした。従って、いつまたD51がやってきてもおかしくはない、雰囲気が漂っていました。沿線の構築物等の微妙な変化に、5年の歳月の経過を感じました。 |
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| 布原(信)→備中神代 1978年3月29日 | |||
| 左からD51(195・838・665・481)・DD51777・D51(937・837) | |||
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かつての「伯備貨物」牽引機の基地は、「新見機関区」でした。現在は、1980年頃の電化関連工事に伴い、跡形もなくなってしまっていますが、津山機関庫同様に立派な扇形庫がありました。機関区の開設は昭和3年(1928年)10月25日で、今から40年前の1970年6月には、D51:26両・C58:13両、合計:39両ものSLを保有していました。機関車の駐泊が全く見られない(3080レを除く)、現在とは隔世の感があります。 この画像は完全無煙化の3ヶ月前で、既にC58の姿はなく、DD51が入線し、D51も15両に減少していました。D51は休車のカマが目立つ状況で、引退が近い事を示すものでした。 ※許可を得て撮影。 |
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| 新見機関区 1973年1月8日 | |||
| 左からDD51779・DD511024・DD511021・DD511025 | |||
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上の画像の5年後、まだ大がかりな電化関連工事が始まる前の新見機関区です。この頃は、まだSL時代の面影を色濃く残していました。微妙な変化はありますが、扇形庫・転車台も健在で、駐泊しているカマが、D51・C58からDD51・DE10に替わっただけ、と思えました。 DLの通常の保守作業は、伯備線用DD51の配置が岡山機関区であるにもかかわらず、新見機関区で行なわれていたような印象でした。この頃の岡山機関区DD51配置両数は、25両でした。この中には、500代ナンバー機のほか、若番:4号機が含まれていました。 ※許可を得て撮影。 |
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| 新見機関区 1978年3月29日 | |||
| 跡形も無い、新見機関区扇形庫 | |||
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上の画像の21年後の、同一場所の姿です。前述のとおり、機関車は1台もいません。また、昼間は電車・気動車の駐泊も少なく、夜間に115系電車・キハ120系気動車の駐泊が見られる程度です。 思えば、40年前、真夜中であってもD51やC58が黒煙を噴き上げ、遠くまで汽笛を響かせ、さかんに構内を行き来していた、その同じ場所であるとは到底思えません。まさに、”浦島太郎”の心地になる場所であり、近くの後藤総合車両所(国鉄時代の米子機関区)が、比較的当時の面影を残しているのとは対照的です。背景の山の稜線が、ここが同じ場所である事を如実に示しています。 ※許可を得て撮影。 |
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| 新見運転区 1999年9月12日 | |||
| 1492レ・DD51779+貨車 | |||
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伯備線完全無煙化から5年後、DD51の時代真っ只中の時期、伯備貨物の標準的な姿です。この画像では補機は付いていませんが、生山⇔新見間では25‰上り勾配が多く存在するため、長編成の貨物列車には、D51の時代と同様に補機が連結されました。 貨物列車の編成両端には緩急車が連結され、かつ2軸貨車主体の編成であった事が、大きな特徴でした。現在このような列車が走っていれば、パニックになるかも知れませんが、この当時の非電化区間はDF50走行路線を除き(この撮影時点で、DD54は姿を消した直後でした)、全国どこへ行っても「凸形DL+貨車」であり、つまらないというのが、当時の鉄道ファンの評価でした。 |
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| 布原(信)→新見 1978年7月25日 | |||
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| 先の画像と同じ橋梁を、やや俯瞰気味に撮影しました。ただし、こちらは補機付です。また、電化開業の3年前のこの年になると、沿線にポールがやたらと立っており、物々しくなってきていました。 この画像は、間もなく布原D51三重連が姿を消すという事から、”この狭い布原に約3千人のSLファンが集まった時(1972年3月12日(日)”から数えて、ほぼ7年後の撮影です。7年前の3千人に対して、この時はたった一人で撮影しました。もちろん、この日、鉄道ファンに出会った事はなく、D51三重連の時代とDD51の時代の差が歴然としていました。今この列車が走っていれば、「岡見貨物」同様に多くのファンを集めるのでしょうが…。 |
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| 布原(信)→新見 1979年3月13日 | |||
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| 上の画像と同時期の布原俯瞰撮影画像です。新見→生山間で、貨物列車の後部にDD51補機が付いていました(牽引定数が330トン以下の場合は付きませんでした)。 この画像は、列車が信号場通過中のものですが、本務機がポイントを通過したあたりから、”ピッピ”という、給気合図(D51の場合は、これからシリンダに蒸気を送る、給気運転に移る、という意味でしたが、DD51の場合はこれからノッチを入れるという意味でした)が聞かれました。それにしても、”箱庭そのもの”の地形であり、役者が替わっても魅力的な場所でした。かつて布原D51三重連があれだけ人を集めたのは、この風景のよさも一因だったと思います。 |
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| 布原信号場 1979年3月16日 | |||