DD51


鎧→餘部(餘部橋梁) 1003レ 特急出雲3号・DD51
 (米)+DD511179(米)+14系×12 1996.8.17

非電化幹線のエースDD51。と今なら素直に言えるのですが、私の少年時代:SLブームの真っ只中でもあった昭和46〜49年頃においては「目の敵」以外の何物以外でもなかったのです。私と同世代の昭和30年代前半生まれの鉄道ファンの方であれば同じ気持ちを持ったことのある人も多いのではないでしょうか。とにかくあの頃、「○○機関区にDD51:××両配置、それに伴い同区配置のD51△△両は全機廃車」といったニュースがダイヤ改正ごとに繰り返されたのですから…。私の地元の山陰本線・伯備線の重装備D51(米子・浜田・新見の各機関区に配置されていたD51)も例外でなく、DF50・DD54によりじわりじわりと進んできた無煙化の波が、このDD51の集中配置により一気に押し寄せ、わが重装備D51は”死刑宣告”を受けたのでした。せめてあと5年早く生まれていればとかDD51の登場があと5年遅れていればとか思ったものです。しかし、今こうして当時のことを振り返ってみると、昭和40年代にこのDD51が増備されて行き昭和50年に無煙化が完了したというのは、時代の要請であったのだと割り切ることができます(冷静な気持ちにもなれるというのは私自身も年を取ったということかもしれませんが)。今から四半世紀前に幹線用の蒸気機関車(D51・C62・C57など)を追い払った蒸気機関車ファンから見て”悪役”的存在だったこのDD51も、今や時代の流れに翻弄されています。急激なモータリゼーションの波・高速道路網の整備に伴う貨物列車の削減、客車列車のEC化・DC化、老朽化といった影響をもともに受けた形となっており、649両製造された内の30%にも満たない約170両程度が全国で最後の活躍を続けています。私は、D51とDD51を同じ”エースナンバー:51”を持っているのでいつも比較してしまいます。両者は使用線区・性能ともに類似しており、全国の多くの幹線でD51がそのままDD51に置き換えられました。性能もD51が1280PS(石炭:6500kcal時)。DD51が1370PS(発電機等の補機全負荷運転時、補機無負荷運転時は1540PS)と類似しています。牽引定数も、25‰上り勾配のある線区においてD51・DD51ともに換算33両(330トン)という線区が多かったようです。しかしながら、上り勾配での均衡速度はDD51の方に軍配が上がっていたようです。重連で660トンの貨物列車を牽引した場合の25‰上り勾配を上る時の均衡速度は、D51重連が25Km/H程度なのに対し、DD51重連では現在の走行線区の例においても30Km/H強であるようです。趣味的に見たDD51というのは、初めて見た時は「なんと不細工な格好だ!」でした。というのも、地元の山陰本線でDF50やDD54という箱型のディーゼル機関車を見慣れていたからです。やはり、客観的に見ても箱型のカマと凸型のカマを並べて見ると、凸型は見劣りするというのは否めないように思います。しかしながら、運転室前にひさしの付いている姿は精悍に思えます。今ではその”凸型”にもすっかり慣れてしまい、当初の違和感はまったくありません。むしろ”本線用の堂々とした姿”に思えます。エンジン音も実に力強くてよいです。ステレオ録音の対象としてはなくてはならない存在でしょう。いずれDD51もまったく姿を消してしまう日が来るでしょうが、その力強い走りを今しばらく記録し続けたいと思います。


※録音とその録音時同時撮影画像をセットで楽しめます
http://www.apionet.or.jp/DF5051/gallery/

泊→松崎(262.2km) 9レ・特急出雲号・
  DD511188(後)+25系×12 1999.11.20
布原→備中神代(第22西川橋梁) 1001レ 特急出雲1号
 DD511186(米)+DD511105(米)+25系×12 1995.8.3
布原(信)→新見 1990レ DD511026(岡)+DD51(岡) 1979.3.13
布原→新見(69.2km、第23西川橋梁) 
 9934レ DD511183(宮)+12系×6 2000.2.5
餘部→鎧 724レ DD51(米)+旧客 1978.8.15
鎧 724レ DD5149(米)+旧客と
 DD51540(米)+旧客の行き違い  1979.3.23
生田原→常紋(信) (146.0km 25%上り勾配)
 9559レ DD511167(鷲)+DD511151(鷲)+コキ 1998.10.13
岸本→伯耆大山 985レ 1978.12.26