DD51
伯備ハクビ貨物カモツ小史ショウシ
陰陽連絡の最重要幹線である伯備線。SL時代ほどの本数はないものの、今なお4往復もの貨物列車が運転されている。
この路線の鳥取・岡山県境には谷田峠があり、25‰上り勾配が介在しているが、現在はEF64形が単機で600トンの貨物列車を牽引して、40Km/H前後で峠を越えている。
40年以上前、4人の乗務員によるD51重連貨物列車は、620トン牽引・時速20Km強で峠を越えていた事を振り返れば、まさに”近代化のお手本”と言える。ここに至る歴史を、若干振り返ってみたい。
※掲載ケイサイ写真シャシンは、基本的キホンテキに筆者ヒッシャ撮影サツエイ(一部イチブ所蔵ショゾウ写真シャシンを、加工カコウ処理ショリして掲載ケイサイ)。
�@伯備線ハクビセンD51・最後サイゴの活躍カツヤク  
1:2492レ・第ダイ23西川ニシカワ橋梁キョウリョウを行イく、布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レン(先頭セントウ861)
 
SLブーム当時トウジ、”SLブームの象徴ショウチョウ”と言イわれていた、布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レンである。
元々モトモトは重ジュウ連レンで牽引ケンインできる列車レッシャであったため、前マエから2番目バンメの機関車キカンシャは、回送カイソウ扱アツカいであった。当日トウジツ早朝ソウチョウの下クダり貨物カモツ列車レッシャ2本ホンのうち、1本ホンの補機ホキが中止チュウシになると、D51重ジュウ連レンとなっていた。そのため、三重サンジュウ連レンになる確率カクリツは、概オオムね5割ワリだと言イわれていた。
末期マッキになると、布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウを出発シュッパツしてこの第ダイ23西川ニシガワ橋梁キョウリョウに差サし掛カかる前マエに、ドレインを出ダし切キってしまう、ファンサービス運転ウンテンが行オコナわれていた。この日ヒは寒サムさもあってか、橋梁キョウリョウ上ウエでもドレインを出ダし続ツヅけている。
この頃コロ、毎日マイニチ500人ニン〜千人センニンほどのファンが訪オトズれ、現地ゲンチには臨時リンジのうどん屋ヤも出デていた。詳細ショウサイは割愛カツアイするが、1970年ネン12月ツキ〜1971年ネン2月ツキ頭アタマまで、撮影地サツエイチ有料化ユウリョウカを発端ホッタンに「三重サンジュウ連レン騒動ソウドウ」が起オきた。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1972年ネン1月ツキ23日ヒ
2:2492レ・爆バク煙ケムリの布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レン(774+837+473)
 
足立アシダチ発ハツ飾磨シカマ港ミナト行イ・2492列車レッシャは、足立アシダチ石灰セッカイ工業コウギョウからの石灰石セッカイセキ(消石灰ショウセッカイ:セキ6000に搭載トウサイ、生ナマ石灰セッカイ:ホキ7000に搭載トウサイ)を輸送ユソウする、鉱石コウセキ専用センヨウ貨物カモツ列車レッシャであった。
列車レッシャ重量ジュウリョウ:約ヤク500〜600トンに対タイし、急キュウ勾配コウバイ区間クカンのD51牽引ケンイン定数テイスウは330トンであり、補機ホキが必要ヒツヨウであった。D51重ジュウ連レンで牽引ケンイン可能カノウだが、運用ウンヨウ上ジョウの都合ツゴウで先頭セントウから2番目バンメに、回送カイソウのD51が付ツき、三重サンジュウ連レンとなっていた。
※D51三サン重ジュウ連レン・先頭セントウ機キ→当日トウジツ早朝ソウチョウの下クダり465列車レッシャの後補機、次位機→同オナじく当日トウジツ早朝の下り463列車の後補機を、それぞれ務めたD51が折り返し運用で、生山ショウヤマ→足立アシダチ間カンを重ジュウ連レン単機タンキで走ハシった。その重連ジュウレン単機タンキが足立駅到着トウチャク後ゴ、「本務機+石灰石セッカイセキ列車レッシャ編成ヘンセイ」の前部に付いたものであった。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1972年ネン1月ツキ30日ヒ
3:2492レ・ファンサービスの布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レン(937+837+256)
 
山陽サンヨウ新幹線シンカンセン岡山オカヤマ開業カイギョウの3日ヒ前マエの日曜日ニチヨウビ、「先頭セントウ機キにヘッドマークの付ツいた唯一ユイイツ、最初サイショで最後サイゴ」の布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レンである。
私自身ワタシジシンもこの時トキ、現地ゲンチにいたが、この時トキ布原ヌノハラ界隈カイワイに集アツまった、SLファンは2700人ニンと報ホウじられた。集アツまったファンの数カズ・山ヤマの斜面シャメンの”三脚サンキャクの林ハヤシ”の光景コウケイは凄スサまじく、この日ヒのNHK・19時ジの全国ゼンコクニュースでも大オオきく取トり上アげられた。
ちなみにヘッドマークが付ツいたのは、新見ニイミ機関区キカンクのファンサービスであった。
「さよならD51」のヘッドマークが付ツいたため、”最後サイゴのD51三サン重ジュウ連レン”との誤解ゴカイがあり、一部イチブ鉄道テツドウ雑誌ザッシでも報ホウじられたが、本当ホントウの最後サイゴは翌日ヨクジツ:3月ツキ13日ヒであった(本来ホンライなら3月ツキ14日ヒが最後サイゴのD51三サン重ジュウ連レンであったが、14日ヒはD51重ジュウ連レンであった)。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1972年ネン3月ツキ12日ヒ
4:2492レ・最後サイゴの布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レン(889+651+758)
 
正真ショウシン正銘ショウメイの「最後サイゴの布原ヌノハラD51三サン重ジュウ連レン」である※。”昭和ショウワ40年代ネンダイのSLブームの象徴ショウチョウ”と言イわれ、函館ハコダテ本線ホンセン急行キュウコウニセコ・C62重ジュウ連レンと人気ニンキを二分ニブンした、一世イッセイを風靡フウビした、布原ヌノハラD51三サン重ジュウ連レンもこれで最後サイゴとなった。
※1:前日ゼンジツの3月ツキ12日ヒ(日ヒ)が、最後サイゴの布原ヌノハラD51三サン重ジュウ連レンであった旨ムネの雑誌ザッシ記事キジもあるが、本当ホントウの最後サイゴはこの日ヒだった。
※2:翌日ヨクジツの3月ツキ14日ヒ(火ヒ)は、早朝ソウチョウの下クダり貨物カモツ列車レッシャが1本ホンウヤとなった関係カンケイで、D51三サン重ジュウ連レンではなく、D51重ジュウ連レンだった。
※3:3月ツキ15日ヒ(水スイ)から、ダイヤ改正カイセイで2492列車レッシャから5390列車レッシャに列車レッシャ番号バンゴウが変カわり、「DD54+次ジD51」に替カわった。
※4:同年ドウネン10月ツキ2日ヒのダイヤ改正カイセイでは、DLはDD51に統一トウイツされ、5390列車レッシャ「DD51+次ジD51」となった。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1972年ネン3月ツキ13日ヒ
5:6465レ・D51376+D51797+貨車カシャ
 
今は複線の橋梁に架け替えられた、井倉駅を出てすぐの第8高梁川橋梁である。井倉駅で機関士さんと少し話をしていると、”鉄橋の方へ行っておれ。煙を出してやるから…”と言われて、ここにたどり着いた。客観的に見れば、トップライト・逆光条件だが、当時中2の私としてはこれが精一杯で、”約束どおりの猛烈な煙”に感動のあまり、ベストアングルも逃してしまった。
それでも、撮影後力一杯機関士さんお二方に手を振ると、激動しているであろうD51のキャブから、ともに敬礼していただき、しばし呆然として、胸が熱くなった。
※この時期、D51三重連は消えていたものの、D51重連貨物カモツ列車レッシャは5本残っていた(6465レ・785レ・787レ・5594レ・5392レ)。また新見ニイミ以南イナンでは、DE10重ジュウ連レン+D51貨物カモツ列車レッシャ(三重サンジュウ連レン)も見ミられた。
井倉→石蟹
1972年ネン8月ツキ18日ヒ
6:6465レ・D51376+貨車カシャ+逆ギャク後ゴD51524
 
上と同じ列車だが、岡山(操)→新見間がD51重連で、新見→生山間は後部にD51の補機が逆向きに連結された、プッシュプル運転だった。
生山までの補機が逆向きに連結された理由は、当時の生山駅にはD51用の転車台がなかったためである(ただし、現在は撤去されているが、構内上菅側に「米子⇔生山間区間列車用の8620形用手動式転車台」はあった。
上ノボり貨物カモツ列車レッシャ:生山ショウヤマ→新見ニイミ間カンは、正タダ向ムきで前マエ補機ホキまたは次位ジイ補機ホキとなり、重ジュウ連レン運転ウンテン(生山ショウヤマに到着トウチャクした後補機のD51は向きを変えず、上り列車の補機となるべく待機していた)。
現在の伯備貨物は、EF64単機で600トン牽引可能だが、D51・DD51は、新見⇔生山間の牽引定数:単機・330トン、重連・620トンだったので、長い編成の貨物列車には補機が必要だった。
布原(信)→備中神代
1972年ネン8月ツキ18日ヒ
7:462レ・DD5430+次D51889+貨車  
 
あまり知られていないが、”悲運のDL”である、DD54形が米子(操)⇔新見間に、1年間(1971・10・1〜1972・10・1)入線し、伯備貨物の本務機および客車列車牽引に活躍した。
ただし、D51・DD51がともに「動輪上重量:60トン」であるのに対して、DD54のそれは56トンで、相対的に空転しやすく、「DD54形による伯備線全面無煙化は困難」と判断されて、岡山区DD51にバトンを渡して、山陰・播但線無煙化用に転用された。
※格好いいDLであったが、推進軸や変速機トラブルが絶えず、1978年6月に引退した。
※伯備線ハクビセンDD54入ニュウ線セン期間キカンで、後半コウハンの1972・3・15〜1972・10・1は、新見ニイミ⇔岡山オカヤマ間カンにおけるDLは、「DE10重ジュウ連レン(常時ジョウジ)」が主オモに使用シヨウされた(一部イチブDE50)。
布原(信)→新見シンミ
1971年ネン11月ツキ16日ヒ
8:新見ニイミ機関区キカンクD51/米子ヨナゴ機関区キカンクD51
 
1972・3・15のダイヤ改正カイセイで、布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レンが消キえ、伯備線ハクビセンは全線ゼンセンにわたりDLの姿スガタが目立メダった。
伯備ハクビ線セン米子ヨナゴ(操ミサオ)⇔新見ニイミ間カンの貨物カモツ列車レッシャについては、1往復オウフクを残ノコし、他タはDD54に替カわった。
この時点ジテンの新見ニイミ機関区キカンクD51・新見ニイミ以北イホクの運用ウンヨウ↓
●生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カンの補機ホキ
●足立アシダチ⇔新見ニイミ間カンの貨物カモツ列車レッシャ牽引ケンイン。
●米子ヨナゴ(操)⇔新見間の不定期貨物列車(1往復:6465レ・6468レ)
当ダイヤ改正では、米子機関区D51の伯備線運用は無くなり、DD54に替わった。
写真左側の256号機は新見機関区所属で、数少ない米子(操)⇔新見間の貨物列車牽引ケンインまで待機タイキしていた。
右側ミギガワの303号機ゴウキは、米子ヨナゴ機関区キカンク所属ショゾク。米子ヨナゴ機関区キカンクD51は、当トウダイヤ改正カイセイでわずか3両リョウ(303・504・620)に減ヘった。
  米子ヨナゴ機関区キカンク
1972年ネン8月ツキ27日ヒ
9:米子ヨナゴ機関区キカンクで休ヤスむ、2両リョウの新見ニイミ機関区キカンクD51
 
1972・10・2のダイヤ改正カイセイで伯備線ハクビセンのDLは、「DD54/DE10重ジュウ連レン」→「DD51」となり、伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャは、基本的キホンテキにD51・DD51の2形式ケイシキに統一トウイツされた。
※伯備線ハクビセンでは、D51とDD51の共存キョウゾン期間キカンは半年ハントシ間カンだった。
※わずか1両リョウのDE50形カタも走行ソウコウしたと思オモわれるが、詳細ショウサイは不明フメイ。
※伯備ハクビ線セン米子ヨナゴ(操ミサオ)⇔新見ニイミ間カンの貨物カモツ列車レッシャについては、D51牽引ケンインが3往復オウフク残ノコった。
この時点ジテンの新見ニイミ機関区キカンクD51・新見ニイミ以北イホクの運用ウンヨウ↓
●生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カンの補機ホキ
●足立アシダチ⇔新見ニイミ間カンの貨物カモツ列車レッシャ牽引ケンイン。
●米子ヨナゴ(操)⇔新見間の貨物列車(3往復:475レ・5571レ・470レ・474レ・1492レ他タ1本ホン)
画像ガゾウの861号機ゴウキ・473号機ゴウキは、夜間ヤカンの470レ・474レ牽引ケンインまで庫内コナイで休ヤスんでいた。
  米子ヨナゴ機関区キカンク
1972年ネン11月ツキ5日ヒ
10:782レ・D51524+貨車  
 
足立アシダチ発ハツ新見ニイミ行ギョウの小ショウ運転ウンテン貨物カモツ列車レッシャで、わずか5両リョウ編成ヘンセイである。
上ノボり列車レッシャは正セイ向ムきだが、往路オウロの足立アシダチ行イキは逆ギャク向ムきのD51が先頭セントウに立タっていた。それも今イマとなっては、懐ナツかしいシーンである。
長ナガい編成ヘンセイの米子ヨナゴ(操ミサオ)→新見ニイミ間カン・貨物カモツ列車レッシャの本務ホンム機キは、殆ホトンどがDD51に替カわっていたが、生山ショウヤマ→新見ニイミ間カンで次位ジイ補機ホキにD51が多オオく見ミられた。
本務ホンム機キD51は、夜間ヤカンの470レ・474レと昼間ヒルマの1492レのみだった。
キハ181系ケイ下クダり特急トッキュウやくも号ゴウとの列車レッシャ行イき違チガいのため、この撮影サツエイ時点ジテンで既スデに姿スガタを消ケしてしまっていた、D51三重サンジュウ連レン同様ドウヨウ、布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウ出発シュッパツの迫力ハクリョクあるシーンを見ミる事コトができた。
阿ア哲テツ峡キョウ布原ヌノハラにこだまする、D51の汽笛キテキは素晴スバらしく、今イマでも強ツヨく印象インショウに残ノコっている。
  布原信号ゴウ場ジョウ
1972年ネン12月ツキ10日ヒ
11:完全カンゼン無ム煙ケムリ化カを約ヤク3か月後ゲツゴに控ヒカえた、新見ニイミ機関区キカンク�@
 
新見ニイミ機関区キカンクで休ヤスむ、D51・3両リョウ(524+797+473)と、462列車レッシャ牽引ケンインのため、新見ニイミ駅エキに向ムかう直前チョクゼンのD51758(左ヒダリ)である。
正月ショウガツ明アけのためか、まだ休ヤスんでいる機関車キカンシャが多オオい印象インショウだった。
この撮影サツエイ後ゴ、右側ミギガワに目メをやると、DD51用ヨウの軽油ケイユを積ツんだタンクローリーが到着トウチャクしたのが、今イマでも印象インショウに残ノコっている。それは、伯備ハクビ線センにおけるD51の余命ヨメイもあとわずかと、強ツヨく感カンじさせるものだった。
余談ヨダンであるが、先頭セントウのD51524は、完全カンゼン無煙化後約ヤク3か月ゲツ経過ケイカして、最後サイゴまで新見ニイミ機関区キカンクに残ノコっていたが、この年の7月23日付ツけで浜田ハマダ機関区キカンクに転属テンゾクした。
また1975年ネン2月ツキ3日ヒ、国鉄コクテツ後藤ゴトウ工場コウジョウ最後サイゴの解体カイタイSLとなった。
※許可キョカを得エて撮影サツエイ。
  新見ニイミ機関区キカンク
1973年ネン1月ツキ8日ヒ
12:完全カンゼン無ム煙ケムリ化カを約ヤク3か月後ゲツゴに控ヒカえた、新見ニイミ機関区キカンク�A
 
完全カンゼン無煙ムエン化カを約ヤク3か月後ゲツゴ(1973年ネン4月ツキ1日ヒ、伯備線ハクビセン完全カンゼン無煙ムエン化カ)に控ヒカえて、扇オウギ形カタ庫コに勢揃セイゾロいするD51だが、休車キュウシャが目立メダつのも印象的インショウテキだった。

●新見ニイミ機関区キカンクD51(18両リョウ)
(1972・10・2改正カイセイ時点ジテン)
195・256・376・409・473・481・488・524・665・758・774・797・837・838・861・869・937・1067
●新見機関区D51(10両)
(1973・3・31時点・伯備線ハクビセンD51最終サイシュウ営業エイギョウ運転ウンテン日ヒ)
256・376・481・488・524・797・837・838・869・1067
●伯備線ハクビセンD51さよなら臨時リンジ列車レッシャ
466レ・D51838+旧型キュウガタ客車キャクシャ×5
新見ニイミ→岡山オカヤマ間カン・1973年ネン4月ツキ1日ヒ
※466D→466レに変更ヘンコウで運転ウンテン。
  新見ニイミ機関区キカンク
1973年ネン1月ツキ8日ヒ
13:5571レ・D51838+ホキ+ヨ
  伯備線完全無煙化1週間前のD51838の勇姿である。
下り込みで煙は出ないのは分かっていたが、鳥取県側の米子(操)⇔生山間ではD51は殆ど見られなくなっていたので(夜間・早朝の2往復の貨物列車のみ)、記録しておきたく伯耆溝口駅近くで撮影した。
江尾駅出発は当時の時刻表を見ると、6時3分、伯耆溝口駅通過は6時16分。早朝の曇という条件の中、D51の姿は見えないのに何度も何度も汽笛が聞こえてきた。これは、物凄く幻想的な光景であった。
一度この列車他の谷田峠に挑む迫力あるサウンドを録音したいと思っていたが、中2の身分では叶わず終わった。
せめてあと5年ネン早ハヤく生ウまれていれば、当時トウジ発売ハツバイ直後チョクゴのデンスケで、ステレオ録音ロクオンできていたであろう。
伯耆溝口→岸本     1973年ネン3月ツキ25日ヒ
14:待機タイキするD51376と922レ・DD51
 
1972年10月、米子機関区DD54のバトンを受けて、岡山機関区DD51による伯備線無煙化が進んだ。
新幹線岡山開業の1972・3・15〜1972・10・1の約半年間は、新見⇔岡山間無煙化推進用として、DE10重連(常時重連)が進出したが、1972・10・2以降は、伯備線全線でDD51が活躍を始めた。
以降完全無煙化まで、半年間D51とDD51が共存した。
これは、米子操車場発の1492列車(現在の3082列車のスジ)の前補機となるため、待機しているD51とDD51牽引客車列車のスナップである。完全無煙化前の象徴的なシーンとも言える。

●SLブーム当時は、敷地内撮影は黙認状態だったので、ご了承いただきたい。
生山ショウヤマ駅エキ
1973年ネン3月ツキ25日ヒ
15:待機タイキするD51376
 
NO.14と同オナじ場所バショ・日時ニチジである。小雪コユキの舞マう中ナカ、376号機ゴウキが待機タイキしていた。
小雪コユキが舞マい、雪景色ユキゲシキでもあるのにスノープラウを既スデに外ハズしていたのには、違和感イワカンを覚オボえた。
暖アタタかくなってきていたのに、急キュウに冷ヒえ込コんだのであろう。
この時点ジテンで、一足ヒトアシ先サキに石蟹イシガ⇔岡山オカヤマ(操ミサオ)間カンが完全カンゼン無煙ムエン化カされており、NO.12の記載キサイどおりD51の配置ハイチは10両リョウに減ヘっていた。
新見ニイミ⇔米子ヨナゴ(操)完全カンゼン無煙ムエン化カまで1週間シュウカンに迫セマったこの日ヒ、見ミたD51は、838・376・837・473・256の5両リョウのみだった。

※473号機ゴウキはこの日ヒ見ミたが、3月ツキ31日ヒを待マたずして浜田ハマダ機関区キカンクに異動イドウした。
  生山ショウヤマ駅エキ
1973年ネン3月ツキ25日ヒ
16:1492レ・前マエD51376+DD51+貨車カシャ
 
上の画像のD51376が、1492列車の前補機(生山→新見間)となって谷田峠を越えてきて、布原信号場を通過したところである。
1973年ネン3月ツキ1日ヒからは、石蟹⇔岡山(操)間が一足先に完全無煙化されていた。そこで、当時の新見機関区では、「布原信号場付近」を伯備線D51最後の撮影適地として、SLファンに薦めていたと聞いた。
※この区間クカン完全カンゼン無煙ムエン化カに伴トモナい、新見ニイミ機関区キカンクD51使用シヨウ両リョウ数スウが15両リョウ→10両リョウに減少ゲンショウした。
この時期、谷田峠越えの貨物列車は、殆どが「DD51+次D51」の編成であったところ、この列車のみ前D51だったので、人気があった。
しかしながら、この撮影の1年前にD51三重連が消えてからは、伯備線を訪れるSLファンは激減し、この列車をここで見送ったのは20人程度であった。
布原ヌノハラ信シン号ゴウ場ジョウ
1973年ネン3月ツキ25日ヒ
17:1496レ・DD51+次ジD51837+貨車
 
伯備線完全無煙化までの半年間、谷田峠越えの貨物列車で見られた、典型的な重連である。今思えば、D51三重連よりもむしろ貴重なシーンだが、当時のSLファンからは「前DL」というのは、かなり嫌われていた(播但線の前DD54+C57も同様であった)。
伯備線D51最後の半年間において、谷田峠越え・D51重連貨物列車(474列車)も残っていたが、それは深夜の時間帯に走る列車だった。考えられる理由は、この当時、キハ181系特急やくも号が4往復設定されており、少しでも気動車との並行ダイヤが可能なように(勾配区間の速度向上)、DD51が本務機となる貨物列車を、昼間の貨物列車に設定したためと思われる。
布原ヌノハラ信シン号ゴウ場ジョウ            1973年ネン3月ツキ25日ヒ
18:6465レ・DD51+貨車カシャ+逆ギャク後ゴD51256
 
1972・10・2ダイヤ改正で伯備線全線にDD51が登場した後、以前D51どうしのプッシュプルだった、この6465列車も本務機がDD51に替わった。この列車は、現代のコキ71形に相当する、車運搬車:ク5000形を連結しているのが印象的で、この時もDD51の次次位に連結していた。
信号場通過のため、減速して軽やかなエンジン音を響かせて、まずはDD51、そして続く貨車が通過し、最後に血相変えた雰囲気で逆向きのD51が通過した。石炭焚D51とDD51との出力比較※では、DD51が若干パワーが上回る(20%〜30%)ためか、この時もD51が”引っ張られている”感があった。
※重油ジュウユ併燃D51は、1590PSあり(石炭焚D51:1180PSまたは1280PS)、DD51:1540PS(14N時)とほぼ同等であった。
布原(信)→備中神代
1973年ネン3月ツキ25日ヒ
19:浜田機関区ハマダキカンクに転属テンゾクする、新見ニイミ機関区キカンクD51
 
伯備ハクビ線センD51最終サイシュウ営業エイギョウ運転日ウンテンビにおける、米子ヨナゴ機関区キカンク情景ジョウケイである。
右側ミギガワは546レを牽引ケンインしてやってきた、浜田機関区C57だが、左側ヒダリガワのD51488・真マん中ナカのD51481は、この日ヒの日付ヒヅケで新見ニイミ機関区キカンクから浜田ハマダ機関区キカンクに転属テンゾクするところである。
この日ヒ、生山駅ショウヤマエキまで行イこうと考カンガえていたが、国鉄コクテツ職員ショクインの方カタに確認カクニンしたところ、「新見ニイミのD51はもう殆ホトンど動ウゴいていないよ。」と言イわれて、列車レッシャ移動イドウするのをやめた記憶キオクがある。
後アトでわかった事コトだが、この営業エイギョウ運転ウンテン最終日サイシュウビは、足立アシダチ→新見ニイミ間カン・5390レの次位ジイ補機ホキのみD51だったようである。
従シタガって、やはり生山駅ショウヤマエキまで行イったとしても、新見ニイミ機関区キカンクのD51は全マッタく見ミれず、もはや新見ニイミ機関区キカンクで庫コ内ナイに休ヤスむD51しか見ミれなかったようである。
  米子ヨナゴ機関区キカンク
1973年ネン3月ツキ31日ヒ
�A伯備線ハクビセン・DD51の時代ジダイ  
1:462レ・DD51797+貨車カシャ/560レ・D51620+貨車カシャ
 
米子ヨナゴ操車場ソウシャジョウが開設カイセツされてから2年後ネンゴの姿スガタである。左ヒダリが伯備線ハクビセンDD51、右ミギが山陰サンイン本線ホンセンD51である。
伯備線ハクビセンは完全カンゼン無ム煙ケムリ化カから約ヤク1年ネン経過ケイカ、山陰サンイン本線ホンセン米子ヨナゴ(操ミサオ)⇔下関シモノセキ間カン完全カンゼン無ム煙ケムリ化カ8か月ゲツ前マエの時点ジテンだった。
何気ナニゲないスナップであるが、今イマ思オモえば貴重キチョウな”51形カタどうし”の並ナラび、「バトンを渡ワタす者モノ」と「バトンを渡ワタされる者モノ」との並ナラびであったと言イえる。
伯備線ハクビセン・山陰サンイン本線ホンセンに限カギらず、昭和ショウワ40年代ネンダイの主要シュヨウ幹線カンセン・亜ア幹線カンセンで見ミられた光景コウケイであろう。
余談ヨダンであるが、左側ヒダリガワのDD51797は、解体カイタイを免マヌガれ、現在ゲンザイミャンマーに渡ワタり、活躍中カツヤクチュウである。右側ミギガワのD51620は、大山口ダイセングチ駅エキ横ヨコに静態セイタイ保存ホゾンされたが、近年キンネン諸般ショハンの事情ジジョウにより解体カイタイされ、隠岐オキの島シマで一部イチブの部品ブヒンが展示テンジされている。
  米子ヨナゴ操車場ソウシャジョウ
1974年ネン3月ツキ17日ヒ
2:465レ・DD511020+貨車カシャ+後ゴDD51793
 
伯備線完全無煙化から約5年後、先サキの画像撮影からも5年経過した後の同一列車(列車番号は、定期列車に変わっていました)である。撮影地点は異なるが、同じ場所を行くところである。
1972年8月に、全く同じ場所でD51どうしのプッシュプルを撮影した事もあって、D51と比較したい”という思いから、とても新鮮に映った。この頃はまだ電化工事は始まっておらず、ポールは建っていなかった。従って、いつまたD51がやってきてもおかしくはない、雰囲気が漂っていた。沿線の構築物等の微妙な変化に、5年の歳月の経過を感じた。
この地点チテンは15.2‰であり、若干ジャッカン軽カロやかな通過ツウカであったが、D51同様ドウヨウ迫力ハクリョクあるものだった。この地点チテンではD51の同列車ドウレッシャとの速度ソクド差サは感カンじなかった(25‰上ノボり勾配コウバイでは、DD51の方ホウがD51よりやや速ハヤい)。
布原(信)→備中神代
1978年ネン3月ツキ29日ヒ
3:左ヒダリからD51(195・838・665・481)・DD51777・D51(937・837)
 
かつての「伯備貨物」牽引機の基地は、「新見機関区」であった。現在は、1980年頃の電化関連工事に伴い、跡形もなくなっているが、津山機関庫同様に立派な扇形庫があった。
機関区の開設は昭和3年(1928年)10月25日で、今から48年前の1970年6月には、D51:26両・C58:13両、合計:39両ものSLを保有していた。機関車の駐泊が全く見られない、現在とは隔世の感がある。
この画像は完全無煙化の3ヶ月前で、既にC58の姿はなく、DD51が入線し、D51も15両に減少していた。D51は休車のカマが目立つ状況で、引退が近い事を示すものだった。

●許可を得て撮影。
新見シンミ機関区キカンク
1973年ネン1月ツキ8日ヒ
4:左ヒダリからDD51779・DD511024・DD511021・DD511025
 
NO.3の画像の5年後、まだ大がかりな電化関連工事が始まる前の新見機関区である。
この頃は、まだSL時代の面影を色濃く残していた。微妙な変化はあるが、扇形庫・転車台も健在で、駐泊しているカマが、D51・C58からDD51・DE10に替わっただけ、と思えた。
DLの通常の保守作業は、伯備線用DD51の配置が岡山機関区であるにもかかわらず、新見機関区で行なわれていたような印象だった。
この頃の岡山機関区DD51配置両数は、25両であった。この中には、500代ナンバー機のほか、若番:4号機が含まれていた。

●許可を得て撮影。
新見シンミ機関区キカンク
1978年ネン3月ツキ29日ヒ
5:跡形アトカタも無ナい、新見シンミ機関区キカンク扇形センケイ庫コ
 
NO.19の画像の21年後の、同一場所の姿である。
前述のとおり、機関車は1台もいない。また、昼間は電車・気動車の駐泊も少なく、夜間に115系電車・キハ120系気動車の駐泊が見られる程度である。思オモえば48年前、真夜中であってもD51やC58が黒煙を噴き上げ、遠くまで汽笛を響かせ、さかんに構内を行き来していた、その同じ場所であるとは到底思えない。
まさに、”浦島太郎”の心地になる場所であり、近くの後藤総合車両所(国鉄時代の米子機関区)が、比較的当時の面影を残しているのとは対照的である。背景の山の稜線が、ここが同じ場所である事を如実に示している。

●許可を得て撮影。    
新見シンミ運転ウンテン区ク
1999年ネン9月ツキ12日ヒ
6:5390レ・DD511019+貨車
 
伯備ハクビ線セン完全カンゼン無煙ムエン化カから5年ネン3か月後ゲツゴ、あのD51三重サンジュウ連レン牽引ケンインであった、足立アシダチ発ハツ飾磨シカマ港ミナト行イ・石灰石セッカイセキ専用センヨウ貨物カモツ列車レッシャは、このように変カわっていた。
完全カンゼン無煙ムエン化カ当時トウジ(1973年ネン4月ツキ)は、「DD51重ジュウ連レン+ワフ+セキ6000×5両リョウ前後ゼンゴ+ホキ7000×4両リョウ前後ゼンゴ+ヨ」の編成ヘンセイだったが、5年余ネンヨの間カンに、消石灰ショウセッカイを積ツむセキ6000の姿スガタが消キえていた。
いつからかは不明であるが、1975年前後に、足立石灰工業から出荷される石灰石のうち、消石灰についてはトラック輸送に置き換わったと推測される。列車レッシャ重量ジュウリョウが、当然トウゼンDD51の牽引ケンイン定数テイスウ330トン未満ミマンなので、単機タンキ牽引ケンインに変更ヘンコウになっていた。
この撮影サツエイから8年後ネンゴの1986年ネン10月ツキ、国鉄コクテツ飾磨シカマ港コウ線センの廃止ハイシに伴トモナい、ホキ7000に積載セキサイしていた生ナマ石灰セッカイの輸送ユソウもトラックに置オき換カえられた。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1978年ネン7月ツキ25日ヒ
7:5492レ・DD51795+貨車
 
21と同一ドウイツ系統ケイトウ列車レッシャだが、1978年ネン10月ツキのダイヤ改正カイセイで、列車レッシャ番号バンゴウが5390レから5492レと変カわった。
また列車レッシャ編成ヘンセイについても、ホキ7000以外イガイの他タ形式ケイシキの貨車カシャが連結レンケツされるようになった。この時トキは、側面ソクメン白シロ帯オビ無ナしのDD51795号機ゴウキ牽引ケンインだったので、印象インショウに残ノコっている。

●この頃コロの伯備線ハクビセン用ヨウ岡山オカヤマ機関区キカンクDD51配置ハイチは以下イカのとおりだった。
※1978・3・31現在ゲンザイ  ※全ゼン28両リョウ
4・776・777・779・780・
781・782・783・784・785・
792・793・794・795・796・
797・798・841・1017・1018・
1019・1020・1021・1022・
1023・1024・1025・1026
  布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1978年ネン12月ツキ29日ヒ
8:5492レ・DD51795+貨車
 
NO.7と同オナじ列車レッシャを、やや俯瞰フカン気味キミに撮影サツエイした。奇クしくも、また白シロ帯オビ無ナしの795号機ゴウキ牽引ケンインだった。
それにしても、昔ムカシ詩人シジン若山ワカヤマ牧水ボクスイに「幾イク山河サンガ越コえさり行イかば寂サビしさのはてなむ国クニぞ今日キョウも旅タビゆく」と歌ウタわれた、景勝地ケイショウチ阿ア哲テツ峡キョウ布原ヌノハラだけあって、紅葉コウヨウ期キ・若葉ワカバの季節キセツでなくとも景色ケシキは美ウツクしい。
この撮影サツエイの7年前ネンマエのD51三重サンジュウ連レン最終サイシュウ日ヒ前日ゼンジツではじっくりと味アジわえなかった、美ウツクしい景色ケシキをゆったりと楽タノしむ事コトができたのだった。布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レンの最終サイシュウ列車レッシャが走行ソウコウしてからちょうど7年後ネンゴの、同系列ドウケイレツの列車レッシャの姿スガタである。
D51三重サンジュウ連レンの時代ジダイの重量感ジュウリョウカン・迫力ハクリョクと比較ヒカクすると、その姿スガタは寂サビしいものではあったが、この時点ジテンではとにもかくにも、足立アシダチ石灰セッカイ工業コウギョウの鉱石コウセキ列車レッシャは存続ソンゾクしていた。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1979年ネン3月ツキ13日ヒ
9:1492レ・DD51779+貨車
 
伯備線完全無煙化から5年後、DD51の時代真っ只中の時期、伯備貨物の標準的な姿である。
この画像では補機は付いていないが、生山⇔新見間では25‰上り勾配が多く存在するため、長編成の貨物列車には、D51の時代と同様に補機が連結された。
貨物列車の編成両端には緩急車が連結され、かつ2軸貨車主体の編成であった事が、大きな特徴だった。現在このような列車が走っていれば、パニックになるであろうが、この当時の非電化区間はDF50走行路線を除き(この撮影時点で、DD54は姿を消した直後)、全国どこへ行っても「凸形DL+貨車」であり、つまらないというのが、当時の鉄道ファンの評価であった。
布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1978年ネン7月ツキ25日ヒ
10:1990レ・DD511026+DD51+貨車カシャ
 
先の画像と同じ橋梁で、やや俯瞰気味に撮影した。ただし、こちらは補機付である。
電化開業の3年前のこの年になると、沿線にポールがやたらと立っており、物々しくなってきた。
この画像は、間もなく布原D51三重連が姿を消すという事から、”この狭い布原に約3千人のSLファンが集まった時(1972年3月12日(日)”から数えて、7年後の撮影である。
7年前の3千人に対して、この時はたった一人で撮影した。もちろん、この日、鉄道ファンに出会った事はなく、D51三重連の時代とDD51の時代の差が歴然としていた。
下クダり貨物カモツ列車レッシャの補機ホキは、D51の時代ジダイと同様ドウヨウに後部コウブ補機ホキであったため、生山ショウヤマ→新見ニイミ間カンの上ノボり貨物カモツ列車レッシャの補機ホキに乗務員ジョウムイン乗車ジョウシャがあった(重連ジュウレン総括ソウカツではなかった)。この画像ガゾウでも次位ジイ機キに乗務員ジョウムインが確認カクニンできる。
布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1979年ネン3月ツキ13日ヒ
11:1992レ・DD511024+DD51780+貨車カシャ
 
上の画像と同オナじアングルのDD51重ジュウ連レンだが、こちらは午後ゴゴの上ノボり貨物カモツ列車レッシャ・晴天セイテン時ジの撮影サツエイである。
先サキの画像ガゾウの1990レ、この1992レともにデンスケでステレオ録音ロクオンを並行ヘイコウしたが、こちらの方ホウが編成ヘンセイがやや長ナガく、サウンドも迫力ハクリョクがあった(列車レッシャの最後尾サイコウビが、300m先サキの信号場シンゴウジョウの駅舎エキシャ付近フキンにある)。
この日ヒも鉄道テツドウファンに出会デアった事コトはなかった。ブルトレ・EF58・DF50・旧型キュウガタ電デン機キ等トウ、様々サマザマな魅力的ミリョクテキな車両シャリョウが活躍カツヤクしていた時代ジダイであり、またDD51が当アたり前マエに活躍カツヤクしていた事コトも一因イチインだったと思オモえる。
余談ヨダンだが、この第ダイ23西川ニシガワ橋梁キョウリョウは、「アウトカーブ・俯瞰フカン可能カノウ・橋梁キョウリョウ・背景ハイケイが山ヤマ、川カワ、水田スイデン・順光ジュンコウ撮影サツエイ可能カノウ(朝アサ)」など、撮影サツエイ好コウ条件ジョウケンが揃ソロっており、SLブームの時代ジダイにあれだけ人ヒトを集アツめた一因イチインと思オモえる。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1979年ネン3月ツキ16日ヒ
12:1990レ・DD511024+DD51780+貨車カシャ
  NO.11と奇クしくも同オナじ組クみ合アわせの重ジュウ連レンだが、こちらを先サキに撮影サツエイした。
年末ネンマツのためか編成ヘンセイが短ミジカいが、それでも重ジュウ連レンとなっているのは、下クダり貨物カモツ列車レッシャに後アト補機ホキが付ツいていたためであろう(補機ホキ運用ウンヨウは、新見ニイミ⇔生山ショウヤマ間カンの往復オウフク)。
無蓋車や2軸貨車ばかりで組成される、貨物列車というのは、先頭に立つのがSLからDLに替わっただけで、「昭和の貨物列車」と思える。
また、この当時トウジのDD51は正面ショウメン窓マドHゴム・白色シロイロが標準ヒョウジュンだった。現在ゲンザイ残存ザンゾンしている、DD51は皆ミナ黒クロHゴムとなっており、印象インショウがかなり異コトなる。
また正面ショウメン・補助ホジョ手テすりが、白色シロイロではなく、朱色シュイロとなっている。ラジエーターカバーも、DD51・500番バン代ダイ最終サイシュウグループとな異コトなり、「一体型イッタイガタ」となっている。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見シンミ
1978年ネン12月ツキ29日ヒ
13:1993レ・DD51797+貨車カシャ+DD51
  下クダり米子ヨナゴ(操ミサオ)行イのDD51後アト補機ホキ付ツキ貨物カモツ列車レッシャが、苦ニガケ坂サカトンネルを抜ヌけ、”三重サンジュウ連レンの鉄橋テッキョウ”である、第ダイ23西川橋梁ニシガワキョウリョウを渡ワタるところである。
後補機はまだトンネルの中だが、25‰下クダり勾配コウバイを下クダり、布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウに滑スベり込コむ。
信号シンゴウ場ジョウは通過ツウカだが、SL時代ジダイ同様ドウヨウに、絶ゼツ気キ合図アイズ・給キュウ気キ合図アイズは健在ケンザイで、SLのように、汽笛キテキがこだまするという感カンじではなかったが、この時トキも聞キこえていた。
連結レンケツしている、貨車カシャに「木材モクザイチップ」の積載セキサイが見ミられ、”昭和ショウワ”を感カンじる。
「EF64−1000+コンテナ車シャ」編成ヘンセイが伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャの標準ヒョウジュンとなって、20年ネン以上イジョウ経過ケイカしており、「DD51+混成コンセイ貨車カシャ」の編成ヘンセイには、D51同様ドウヨウ懐ナツかしさを感カンじる。
※先頭セントウのDD51797は、JR貨物カモツで廃車ハイシャ後ゴ、ミャンマーに渡ワタった。現在ゲンザイも活躍中カツヤクチュウである。
  新見→布原ヌノハラ(信シン)
1979年ネン3月ツキ16日ヒ
14:985レ・DD51+貨車カシャ+後ゴDD51
 
上の画像と同時期の布原俯瞰撮影画像である。
新見→生山間で、貨物列車の後部にDD51補機が付いていた(牽引定数が330トン以下の場合は付かなかった)。
この画像は、列車が信号場通過中のものだが、本務機がポイントを通過したあたりから、”ピッピ”という、給気合図(D51の場合は、これからシリンダに蒸気を送る、給気運転に移る、という意味だったが、DD51の場合は、これからノッチを入れるという意味だった)が聞かれた。
それにしても、”箱庭そのもの”の地形であり、役者が替わっても魅力的な場所だった。かつて布原D51三重連があれだけ人を集めたのは、この風景のよさも一因だったと思える。
布原ヌノハラ信シン号ゴウ場ジョウ
1979年ネン3月ツキ16日ヒ
15:984レ・DD51798+DD51+貨車
 
伯備線完全DL化は、1973年(昭和48年)4月1日であった。
その完全無煙化の半年前、1972年10月2日時点で、新見機関区に配属されていたD51は15両であったところ、937号機を除き他は米子・浜田・津和野などに転属した。
この1972年10月2日(ダイヤ改正日)というのは、伯備線DD51の営業運転開始日でもあった。
見方を変えれば、伯備線においてD51とDD51が共存したのは、この日から1973年3月31日までの半年間であった。
その後は、画像のようにDD51が主力機の時代が、約12年続いた(1985年3月13日まで)。2018年で、EF64が主力機となって33年なので、相対的に短かったと言える。
生山ショウヤマ→下石見シモイワミ(信シン)
1978年ネン12月ツキ29日ヒ
16:984レ・DD51重ジュウ連レン+貨車
  完全無煙化された後、伯備線は陰陽連絡路線としてますます重要視されていたので、電化に向けて進んでいった(完全無煙化からわずか9年余の1982年7月1日、電化開業)。
しかしながら、電化開業直後の岡山機関区EF64は、2・9・40の3両のみだったので、前述のとおり1985年3月13日までは、谷田峠越えはこのようにDD51重連が主力だった。
谷田峠越えのDD51重連の牽引定数は、D51重連と同じ620トンだったが、25‰上り勾配を、29Km〜33Km/Hで上っていた(貨物列車運転時刻や荷重曲線による)。
D51重連は、22Km/Hだったので、それよりも若干高速で谷田峠を越えていた。
生山ショウヤマ→下石見シモイワミ(信シン)
1979年ネン3月ツキ15日ヒ
17:1992レ・DD511019+DD51794+貨車
 
谷田タニダ峠トウゲを越コえた、上ノボりDD51重ジュウ連レン牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャが25‰下クダり勾配コウバイを駆カけ下オり、滑スベるように軽カロやかに通過ツウカしていった。
この先サキ新郷ニイザト駅エキで、下クダり985貨物カモツ列車レッシャ(DD51のプッシュプル)と列車レッシャ行イき違チガいをした。このような光景コウケイは、伯備ハクビ貨物カモツ・DD51の時代ジダイの典型的テンケイテキなシーンであった。
D51であれDD51であれ、EF64であれ、中国チュウゴク山地サンチのど真マん中ナカ、伯備線ハクビセンの分水嶺ブンスイレイ付近フキンの新郷駅ニイザトエキ界隈カイワイにおいて、貨物カモツ列車レッシャは実ジツに迫力ハクリョクある走ハシりをしていた。
先頭セントウの1019号機ゴウキの手テすりには、蒸気ジョウキ暖房ダンボウ用ヨウホースが付ツいていたが、それはこの時期ジキにおいては、SGを要ヨウする客車キャクシャ列車レッシャが新見ニイミ以南イナンで走ハシっていたためである。
  上石見カミイワミ→新郷ニイザト
1979年ネン3月ツキ13日ヒ
18:982レ・DD511018+貨車
 
単機タンキ牽引ケンイン・22‰上ノボり勾配コウバイという条件ジョウケンのためか、遠トオくから轟音ゴウオンを響ヒビかせて、DD51牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャがやってきた。上石見カミイワミ駅エキに比較的ヒカクテキ近チカい場所バショである。谷タニ田タ峠トウゲの鳥取県トットリケン側ガワは、田タんぼのど真マん中ナカの開ヒラけた場所バショが多オオいが、ここもそうであった。
この当時トウジの移動イドウ手段シュダンは、「列車レッシャ利用リヨウ+徒歩トホ」のみだったためか、比較的ヒカクテキ駅エキに近チカいポイントばかりで撮影サツエイしていた。
この列車レッシャは、今イマは無ナき車クルマ運搬ウンパン車シャ「ク5000」形式ケイシキ(空車クウシャ)を必カナラず連結レンケツしていた。
並行ヘイコウしてステレオ録音ロクオンも行オコナったが、ウインドジャマーは付ツけておらず強風キョウフウだったため、満足マンゾクのいくものとはならなかった記憶キオクがある。
この1018号機ゴウキョトウジイドウシュダンレッシャリヨウトホヒカクテキエキチカサツエイレッシャイマナクルマウンパンシャケイシキクウシャカナラレンケツヘイコウロクオンオコナツキョウフウマンゾクキオクゴウキョトウジイドウシュダンレッシャリヨウトホヒカクテキエキチカサツエイレッシャイマナクルマウンパンシャケイシキクウシャカナラレンケツヘイコウロクオンオコナツキョウフウマンゾクキオクゴウキは、新製後ただちに岡山機関区に配属された。新見機関区D51置換用新製機の1両である。
  下石見シモイワミ(信シン)→上石見カミイワミ
1979年ネン3月ツキ22日ヒ
19:984レ・DD511017+貨車
 
雲クモ一ヒトつ無ナい快晴カイセイの中ナカ、岡山オカヤマ機関区キカンクDD51牽引ケンイン上ノボり貨物カモツ列車レッシャが、伯耆ホウキ富士フジ大山ダイセンをバックに駆カけ抜ヌけて行イく。
この場所バショは現在ゲンザイも撮影サツエイ可能カノウだが、米子ヨナゴ自動車ジドウシャ道ドウ開通カイツウ後ゴ、やや背景ハイケイがうるさくなっている。
この当時トウジはまだ高速コウソク道路網ドウロモウが整備セイビされておらず、また架線カセン・架線カセン柱チュウも無ナく、背景ハイケイ・周辺シュウヘンがとてもすっきりしていた。
今イマ思オモえば、DD51の後ウシろに二ニ軸ジク無蓋ムガイ車シャが連ツラなる列車レッシャというのは、模型モケイの世界セカイのようなのどかさがあった。
この撮影サツエイの6年前ネンマエには、ここを行イくD51牽引ケンイン定期テイキ貨物カモツ列車レッシャ・臨時リンジ客車キャクシャ列車レッシャ(大社タイシャ臨リン)が見ミられた。D51が消キえてから久ヒサしいとも言イえず、いつD51が走ハシってきても不思議フシギはない雰囲気フンイキだった。
伯耆大山ホウキダイセン→岸本キシモト
1978年ネン12月ツキ26日ヒ
20:985レ・DD51+貨車
 
NO.19と同オナじ場所バショだが、こちらは米子ヨナゴ(操)に向かう、下り列車である。
生山駅で後補機を切離し、伯耆大山まではほぼ下り勾配である。
この列車が通過する頃は、日暮れが迫っており、このようにやや渋い感じとなる。
コンテナ車連結が殆ど無かったこの時代、どんな貨車をどれだけ連結しているかを見れば、時代背景も見えてくる。
余談ヨダンだが、この日ヒこの場所バショで「キハ181系ケイやくも号ゴウ」も撮影サツエイしたが、その際サイに地元ジモトの農業ノウギョウ就業者シュウギョウシャの方カタに、声コエをかけられた。
”大山ダイセンはいい山ヤマだ!”という話ハナシに始ハジまり、その「大山ダイセンをバックに行イく、やくも号ゴウ」額ガク付ツき全紙ゼンシサイズ列車レッシャ写真シャシンを依頼イライされた。
翌年ヨクトシ3月ツキに再フタタび撮影サツエイに訪オトズれた際サイ、届トドけた思オモい出デがある。
岸本キシモト→伯耆大山
1978年ネン12月ツキ26日ヒ
21:1495レ・DD511018+貨車
  複線フクセン電化デンカに伴トモナう、井倉イクラ⇔石蟹イシガ間カンルート変更ヘンコウ・橋梁キョウリョウ架カけ替カえに伴トモナい、現在ゲンザイは見ミる事コトができない、旧キュウ第ダイ8高梁タカハシ川カワ橋梁キョウリョウを行イく、DD51牽引ケンイン下クダり貨物カモツ列車レッシャである。
二ニ軸ジク貨車カシャばかりの編成ヘンセイだった。D51の時トキは猛烈モウレツに煙ケムリを噴フき上アげた場所バショだが(NO.�@ー5の画像ガゾウと同オナじ場所バショ)、DD51では淡アワい排煙ハイエンであった。

※電化デンカ開業カイギョウ直前チョクゼンの1982年ネン6月ツキ15日ヒ、井倉イクラ⇔石蟹イシガ間カンは複線フクセンの別ベツルートに変更ヘンコウされた。この画像ガゾウ撮影サツエイから約ヤク4年後ネンゴの事コトである。
※画像ガゾウ左下ヒダリシタあたり、架カけ替カえる新シン橋梁キョウリョウの橋脚キョウキャク基礎キソ工事コウジに着手チャクシュしている様子ヨウスが確認カクニンできる。
※現在ゲンザイも背景ハイケイの山々ヤマヤマはあまり変カわらないが、架カけ替カえられた現在ゲンザイの橋梁キョウリョウは、列車レッシャの下回シタマワりが完全カンゼンに隠カクれてしまうため、撮影サツエイは難ムズカしい。
井倉イクラ→石蟹イシガ
1978年ネン7月ツキ25日ヒ
22:5593レ・DD51+貨車
 
NO.21にも記載キサイしたが、複線フクセン電化デンカに伴トモナうルート変更ヘンコウで、現在ゲンザイは廃線ハイセンとなってしまっている、井倉イクラ⇔石蟹間イシガカン旧キュウルートを行イく、下クダり貨物カモツ列車レッシャである。
このように、15両リョウ前後ゼンゴの貨物カモツ列車レッシャを撮影サツエイする場合バアイは、きれいに編成ヘンセイが全スベて入ハイった。「対岸タイガンに渡ワタらない鉄橋テッキョウ」であった、足見橋梁である。
この場所は、新見以南の撮影地としては、布原同様に有名であった。
特に1972年3月12日(日)には、「サヨナラD51三重連」臨時旅客列車が走り、その際に数多くのSLファンが訪れたと言われている。
D51が消え、ディーゼルの時代になってからも改めて鉄道雑誌で紹介された。
夏場は草がかなり伸びるため、春秋などの方がよかったようである。
現在この橋梁は「サイクリングロード」に姿を変え、残存している。
井倉イクラ→石蟹イシガ
1978年ネン7月ツキ25日ヒ
23:484レ・DD511022+貨車
 
NO.41と同オナじ足アシ見ミ橋梁キョウリョウであるが、こちらは上ノボり列車レッシャである。
この橋梁キョウリョウを撮影サツエイする場合バアイ、このように井倉イクラ側ガワからだと、夏場ナツバでも草クサは比較的ヒカクテキ目立メダたなかった。
山陽サンヨウ新幹線シンカンセン岡山オカヤマ開業カイギョウ後ゴ、陰陽インヨウ連絡レンラクのメインルートの地位チイを確立カクリツした伯備線ハクビセンであるが、非電化ヒデンカ時代ジダイは、このように模型モケイの世界セカイのようなのどかさを感カンじられる場所バショが、いくつか存在ソンザイしていた。
分水嶺ブンスイレイ近チカくの新郷ニイザト駅エキ・上石見カミイワミ駅エキ付近フキンを境サカイに、北キタは日野ヒノ川ガワおよびその支流シリュウ・南ミナミは高梁タカハシ川ガワおよびその支流シリュウに沿ソうように敷設フセツされた、伯備線ハクビセンはまことに風光フウコウ明媚メイビと言イえる。
当時トウジを振フり返カエって、改アラタめてこのような画像ガゾウを見ミると、現在ゲンザイの伯備線ハクビセンEF64−1000牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャを追オう、鉄道テツドウファンを多オオく集アツめるのが頷ウナズける。
石蟹イシガ→井倉イクラ
1978年ネン7月ツキ25日ヒ
24:扇形オウギガタ庫コ内ナイのDE101013・DD51797・DD511023
  新見ニイミ機関区キカンク扇形オウギガタ庫コで休ヤスむ、DD51・DE10である。
この撮影サツエイの6年前ネンマエ、1972年ネン3月ツキ頃ゴロまでは、それぞれの置オき換カえ前マエのSL:D51・C58が並ナラぶ姿スガタが見ミられた※。
扇オウギ形カタ庫コとDLの組クみ合アわせは、SL同様ドウヨウによく似合ニアう印象インショウだった。完全カンゼン無煙ムエン化カから5年ネン経過ケイカしたこの時トキ、私ワタシ以外イガイに訪問者ホウモンシャは無ナく、機関区キカンクの方カタから”とても珍メズラしい”という印象インショウを持モたれたようだった。
電化デンカ工事コウジにより電車デンシャ留置リュウチ線センが整備セイビされる事コトになり、この扇形庫もこの画像ガゾウ撮影サツエイの2年ネン半ハン後ゴの1980年ネン秋アキ頃ゴロ、惜オしまれて取トり壊コワされた。

※新見ニイミ機関区キカンクC58は、D51よりも1年ネン早ハヤく姿スガタを消ケし、1972年ネン3月ツキ15日ヒのダイヤ改正カイセイ後ゴは見ミられなくなった。
新見シンミ機関区キカンク
1978年ネン3月ツキ29日ヒ
25:新見ニイミ機関区キカンクに集ツドうDD51・DE10
 
NO.24と同オナじ日ヒ・同オナじ新見ニイミ機関区キカンクだが、こちらは留置リュウチ線センである。
SL時代ジダイのピットは残存ザンゾンしていたほか、給炭キュウタン台ダイが無ナくなっている事コト以外イガイは、SL時代ジダイの面影オモカゲを残ノコしていた。
この時トキは、画像ガゾウ左側ヒダリガワに、新シンしい建物タテモノが建築中ケンチクチュウであったが、それは現在ゲンザイも使用中シヨウチュウのようである。
伯備ハクビ線センがキハ181系ケイ・DD51の時代ジダイの真マっただ中ナカであったが、時代ジダイは確実カクジツに電化デンカに向ムけて動ウゴいていた。
D51三重サンジュウ連レンが健在ケンザイの頃コロは、数多カズオオくのファンを布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウ同様ドウヨウに多オオく集アツめた、新見ニイミ機関区キカンクであったが、この頃コロはファンの姿スガタは殆ホトンどなかったと思オモわれる。
それを示シメすかのように、この時期ジキの新見ニイミ機関区キカンクの画像ガゾウや、記事キジを殆ホトンど見ミかけない。
新見シンミ機関区キカンク
1978年ネン3月ツキ29日ヒ
26:793レ・DD51520+貨車カシャ
  新見ニイミ発ハツ足立アシダチ行イキの短編成タンヘンセイの貨物カモツ列車レッシャが、終着シュウチャク足立アシダチ駅エキに到着トウチャクしたところである(ホーム先端センタンから撮影サツエイ)。
この列車レッシャは、D51の時代ジダイは「逆ギャクD51+貨車カシャ」の編成ヘンセイで、時速ジソク45Kmの速度ソクド制限セイゲンがあった。
今イマ思オモえば、「逆ギャクD51」の運転ウンテンは、本当ホントウに”職人ショクニン技ワザ”であったと思オモえる。
C56のように切キり取トられたテンダではないため、進行シンコウ方向ホウコウ前方ゼンポウの見通ミトオしが全マッタく利キかず、信号シンゴウ・前方ゼンポウ確認カクニンは、運転室ウンテンシツ窓マドから頭アタマや体カラダを乗ノり出ダして行オコナうしかなかったからである。
画像ガゾウ左ヒダリ側ガワの川カワは、高梁タカハシ川ガワ支流シリュウの西川ニシガワで、伯備線ハクビセンにはこれを渡ワタる橋梁キョウリョウが、23個コもある。
第1西川ニシガワ橋梁キョウリョウは、新郷ニイザト⇔足立アシダチ間カンにあり、布原ヌノハラD51三重サンジュウ連レンで超チョウ有名ユウメイになった第ダイ23西川ニシガワ橋梁キョウリョウは、布原ヌノハラ(信シン)⇔新見ニイミ間カンにある。
足立アシダチ駅エキ
1980年ネン9月ツキ12日ヒ
27:982レ・DD51782+貨車カシャ
 
お馴染ナジみの第ダイ23西川ニシガワ橋梁キョウリョウだが、こちらは午後ゴゴの貨物カモツ列車レッシャである。
有名ユウメイなこのポイントからは、完全カンゼンに逆光ギャクコウとなる。
電化デンカ開業カイギョウまで2年ネンを切キったこの頃コロになると、架線カセン柱チュウはほぼ揃ソロっていた。ただし、架線カセンはまだ張ハられていなかった。
しかしながら、カーブの外側ソトガワに架線カセン柱チュウを建立コンリュウする事コトが原則ゲンソクなのか、同時ドウジに敷設フセツされたケーブルも含フクめてカーブの外側ソトガワに敷設フセツされた。
従シタガってこの時期ジキから”三重サンジュウ連レンの鉄橋テッキョウ”は、ベストなお立タち台ダイではなくなった。
この982列車レッシャは、必カナラずDD51の次位ジイに「荷ニ無ナし状態ジョウタイのク5000形式ケイシキ」が連結レンケツされており、印象深インショウブカいものだった。
布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1980年ネン9月ツキ12日ヒ
28:1992レ・DD51+貨車カシャ
 
第ダイ23西川橋梁ニシガワキョウリョウを、河原カワラ岸キシで撮影サツエイしたものである。
D51三重サンジュウ連レンをこの位置イチから撮影サツエイした写真シャシンも、よく鉄道テツドウ雑誌ザッシ等トウで見ミかけたが、河原カワラからであっても手前テマエに架線カセン柱チュウがあるため、目立メダってしまう事コトが分ワかる。
画像ガゾウの左ヒダリから1番目バンメと2番目バンメの橋脚キョウキャクであるが、D51三重サンジュウ連レンが消キえた後アトから補強ホキョウ工事コウジがされた。
D51三重サンジュウ連レンが消キえて9か月ゲツ後ゴの1972年ネン12月ツキに、ここを訪オトズれたが、日曜日ニチヨウビにもかかわらず、大オオきな音オトを立タてて橋脚キョウキャク工事コウジ中ナカであった事コトを覚オボえている。
本来ホンライであれば、左ヒダリから3番目バンメの橋脚キョウキャク補強ホキョウ工事コウジのあった、1970年ネン2月ツキ頃ゴロの後アト、引ヒき続ツヅき行オコナわれる予定ヨテイであったが、”増加ゾウカしてきた、D51三重サンジュウ連レン撮影者サツエイシャに配慮ハイリョをしてほしい”との声コエがあり、D51三重サンジュウ連レンが消キえるまでは工事コウジされなかったと聞キいた。
布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1980年ネン9月ツキ12日ヒ
29:792レ・DD51520+貨車カシャ
  NO.�@ー10と同オナじスジで、足立アシダチ発ハツ新見ニイミ行イ・小ショウ運転ウンテン貨物カモツ列車レッシャである。
これはD51牽引ケンインの時トキから約ヤク8年後ネンゴの撮影サツエイで、下クダりやくも号ゴウ待マち合アわせのため、布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウ停車テイシャ〜出発シュッパツのという流ナガれ・貨車カシャ両リョウ数スウ(3〜10両リョウ程度テイド)は、変カわってはいなかった。
D51の時トキも猛烈モウレツな煙ケムリを噴フき上アげたが、DD51になってもこのように、猛烈モウレツな排気ハイキ煙ケムリを上アげていた。
この時トキもステレオ録音ロクオンを並行ヘイコウしたが、運転士ウンテンシさんがマイクに気付キヅいたのか、目メの前マエで長ナガい笛フエを鳴ナらしながら、荷ケ坂トンネルに進入していった。
※この頃は、昼間のヘッドライト点灯はなかった。
※全国各地にDD51形が活躍していた時期だけに、0番代の「非重連タイプ」やこの520号機のように、「半重連タイプ」のものなど、様々なDD51が見られた。
  布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1980年ネン9月ツキ12日ヒ
30:984レ・DD51540+貨車カシャ
 
約ヤク20両リョウの貨車カシャを牽引ケンインして、25‰上ノボり勾配コウバイを上ノボる。
この場所バショは、午後ゴゴから逆ギャク光ヒカリ・半ハン逆ギャク光ヒカリとなるが、背景ハイケイのよさ・駅エキ(信号シンゴウ場ジョウ)から近チカい事コト・D51三重サンジュウ連レン思オモい出デの場所バショなどの理由リユウで、何度ナンドも訪オトズれていた。
生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カンは、DD51単機タンキ牽引ケンインで定数テイスウ330トンであるから、連結レンケツ両リョウ数スウから見ミると、おそらく定数テイスウに近チカかったと思オモわれる。
そのためか、猛烈モウレツに排気ハイキ煙ケムリを出ダしている。
この日ヒは、982レ〜1992レ〜792レ〜984レと撮影サツエイしたが、いずれも単機タンキ牽引ケンイン(792レは常時ジョウジ単機タンキ牽引ケンイン)だった。
単機タンキ牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャは、重ジュウ連レンと比較ヒカクすると写真シャシン写ウツりはやや物足モノタらないが、録音ロクオンはむしろ迫力ハクリョクあるものとなる。
布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1980年ネン9月ツキ12日ヒ
31:992レ・DD51798+DD51+貨車
  既スデに電化デンカ開業カイギョウ準備ジュンビがほぼ完了カンリョウし、EF64試運転シウンテンが始ハジまった、時期ジキの撮影サツエイである。
DD51重ジュウ連レンは、電化デンカ開業カイギョウ後ゴも約ヤク2年ネン8か月ゲツ存続ソンゾクし、1985年ネン3月ツキ14日ヒダイヤ改正カイセイで、伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャ主力シュリョク機キがEF64化カされるまで続ツヅいた。
それは、DD51を置オき換カえるためのEF64・0番代の岡山機関区配置が当初わずか3両だったためである。
この撮影の10年前までは、D51三重連撮影の絶好のポイントとして、雛壇まで整備された「お立ち台」からの撮影だが、この頃はまだ草木の伸びない、夏場以外であればこのように撮影可能だった。
2018年現在においても、架線柱・ケーブル等は当然そのままだが、樹木の成長に伴い、この位置からの撮影は不可能となっている(極小スペースの河原や鉄橋端線路脇のみ撮影可能)。
布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1982年ネン2月ツキ16日ヒ
32:試シ9752レ・EF6479+DD51
 
NO。31と同日ドウジツ、同オナじ場所バショで撮影サツエイした、EF64試運転シウンテンである。
電化デンカ開業カイギョウまで5か月ゲツ弱ジャクと迫セマった時期ジキだが、既スデに架線カセンが張ハられ、通電ツウデン状態ジョウタイだった。
NO.45〜NO.49の画像ガゾウ撮影サツエイ時ジから、約ヤク1年半ネンハン経過ケイカ後ゴの撮影サツエイだが、1年ネン半ハンで大オオきく進展シンテンしていた。
EF6479号ゴウは、当時トウジの甲府コウフ機関区キカンクから借カり入イれの0番バン代ダイラストナンバーである。
次位ジイのDD51は完全カンゼンぶらさがりで、アイドリング無ナしだったように記憶キオクしている。
布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウは短ミジカい停車テイシャの後ノチ、気キ笛一声で出発〜苦ケ坂トンネルも口笛のような、甲高い音を鳴らして進入していった。
次位ジイDD51のランボードなどに、職員ショクインの方々カタガタの添乗テンジョウが確認カクニンできるが、こういう時代ジダイだったのだと改アラタめて感カンじる。
布原ヌノハラ(信シン)→新見ニイミ
1982年ネン2月ツキ16日ヒ
33:試シ9752レ・EF6415+DD51+ホキ他タ+DD51
  NO.32の画像ガゾウ撮影サツエイから6日ヒ後ゴ、今度コンドは死シ重ジュウ扱アツカいの後部コウブDD51・ホキ等トウを連結レンケツして、600トン牽引ケンイン試験シケンが行オコナわれた。2月ツキ16日ヒとは異コトなり、15号機ゴウキの牽引ケンインで行オコナわれた。
この撮影サツエイの10年ネン前マエは、D51重ジュウ連レンやDD54+次ジD51の編成ヘンセイが貨物カモツ列車レッシャの先頭セントウに立タっていたが、まさに「10年ネンひと昔ムカシ」であった。
「貨物カモツ列車レッシャ牽引ケンイン機キの変遷ヘンセン」において、同オナじ勾配コウバイ線センである篠ノ井シノノイ線センと同オナじであった(D51重ジュウ連レンまたはDD51+次ジD51→DD51重ジュウ連レン→EF64・0番バン代ダイ)。
ただし、完全カンゼン無煙ムエン化カ・DL化カ〜電化デンカの流ナガれにおいて、篠ノ井シノノイ線センは完全カンゼン無煙ムエン化カからわずか3年ネン5か月ゲツで電化デンカ開業カイギョウだった。
伯備ハクビ線センは、完全カンゼン無煙ムエン化カから9年ネン3か月ゲツ後ゴの電化デンカ開業カイギョウであった。
  下石見シモイワミ(信シン)→上石見カミイワミ
1982年ネン2月ツキ22日ヒ
34:992レ・DD51785+DD511021+貨車
  上り貨物列車が生山駅を出発すると、いきなり25‰上り勾配が始まり、現在のEF64はもとより、D51・DD51ともども、20Km〜33Km/Hの速度で谷田峠越えに挑んでいた。
生山→上石見間は8.7Km。この区間、D51重連は25分(表定速度:21Km/H)、DD51重連は16分(表定速度ソクド:33Km/H)で挑んでいた。現行のEF64は、列車により若干差があるものの、単機で14分程度で走行している(表定速度:37Km/H)。
DD51・DD54とD51との勾配区間均衡速度の比較では、前者が約10Km/H上回っていたが、これは、前者が速度帯域にかかわらず、ほぼ最高出力を発揮できる特性によるものだった。
※DD54の動輪ドウリン周シュウ最大サイダイ出力シュツリョクは1250PSで、石炭セキタン焚タD51とほぼ同等ドウトウ。
生山ショウヤマ→下石見シモイワミ(信シン)
1982年ネン2月ツキ19日ヒ
35:991レ・後アト補機ホキDD51546+貨車
 
本務ホンム機キDD511026牽引ケンイン下クダり貨物カモツ列車レッシャを、後追アトオい撮影サツエイしたものである。
布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウ通過ツウカ後ゴ、再サイノッチ投入トウニュウで、15.2‰上ノボり勾配コウバイを加速カソクしていくため、猛烈モウレツに排気煙ハイキエンを上アげている。
電化デンカ開業1か月余り経過した時点での撮影だが、貨物列車用のEF64形が、この時点では40号機しかなく、主力機は依然として完全にDD51形であった。
架線カセン柱チュウ・架線カセン・DD51牽引ケンインの3条件ジョウケンを除ノゾけば、1973年ネン(昭和ショウワ48年)3月ツキまでの伯備線ハクビセンD51牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャと大差タイサない印象インショウだった。
近年キンネン収録シュウロクした、「谷タニ田タ峠トウゲ越コえ・DD51重ジュウ連レン+ロンチキ」(足立アシダチ→新郷ニイザト間カン)で実証ジッショウ済スミだが、この後アト補機ホキ付ツキき列車レッシャの谷タニ田タ峠トウゲ越コえ走行ソウコウ音オンも、さぞ迫力ハクリョクあったであろう。
布原ヌノハラ(信シン)→備中神代ビッチュウコウジロ
1982年ネン8月ツキ20日ヒ
36:新見ニイミ⇔生山ショウヤマ間カン:DD51補機ホキ運転ウンテン時刻ジコク表ヒョウ
  伯備線電化開業日(昭和57年7月1日)の新見機関区DD51補機運転時刻表である。
DD51形補機は、1985年3月14日ダイヤ改正で伯備線補機が廃止・岡山(操)⇔米子(操)間直通貨物列車の完全EF64化がなされるまで、続いた。
DD51形のプッシュプル運転は、2018年現在では全マッタく見ミられないが、この当時は伯備線や関西本線でも見られた。
注目すべきは、やはり25‰上り勾配区間での所要時間で、例えば足立→新郷間下り列車では9分45秒である(D51形のプッシュプルは16分)。
上ノボり貨物カモツ列車レッシャにおいて、生山ショウヤマ→上石見カミイワミ間カンは、16分フン運転ウンテンであった事コトが上記ジョウキの運転ウンテン時刻ジコク表ヒョウで分ワかる。
「上ノボり貨物カモツ列車レッシャ:生山ショウヤマ→新見ニイミ間カン・DD51重ジュウ連レン」となる以前イゼンは、この区間クカン:「D51重ジュウ連レン:25分フン」「本務ホンムDD54+次位ジイ補機ホキD51:18分フン」「本務ホンムDD51+次位ジイ補機ホキD51:18分フン」の所要ショヨウ時間ジカンであった。
液体エキタイ式シキディーゼル機関車キカンシャは、速度ソクド帯タイ域にかかわらずほぼ最高サイコウ出力シュツリョクが発揮ハッキできるのが特徴トクチョウで、D51を補機ホキとして連結レンケツした場合バアイ、上ノボり勾配コウバイ運転ウンテン均衡キンコウ速度ソクドを引ヒ上アげ、谷タニ田タ峠トウゲ越コえの運転ウンテン速度ソクドを高タカめていた。
伯備線ハクビセン電化デンカ開業カイギョウ日ヒ付ツケ
1982年ネン7月ツキ1日ヒ
37:8D・まつかぜ2号ゴウと992レ・DD511018+貨車カシャ
電化デンカ開業カイギョウから1年ネン4か月ゲツ経過ケイカした時点ジテンの米子ヨナゴ駅エキスナップである。
真マん中ナカの通過ツウカ線センは、貨物カモツ列車レッシャ発着ハッチャクが伯耆大山駅ホウキダイセンエキに変更ヘンコウされている、現在ゲンザイにおいては撤去テッキョされてしまっている。
左側ヒダリガワのまつかぜ号ゴウは山陰サンイン本線ホンセン特急トッキュウだが、現在ゲンザイでは全マッタく見ミられない、キハ181系ケイがまだ特急トッキュウ列車レッシャの主力シュリョクの時代ジダイだった。
伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャにおいても、EF64−0番バン代ダイが入ニュウ線センしていたが、まだまだDD51が主力シュリョクだった。
この時トキは、岡山オカヤマ機関キカン区クDD51が2軸ジク貨車カシャ主体シュタイの貨物カモツ列車レッシャを牽引ケンインして、ゆっくりと通過ツウカしていった。
ちなみに、この頃コロは山陰サンイン本線ホンセン東部トウブ・福知山線フクチヤマセンの電化デンカ開業カイギョウはしておらず、旧型キュウガタ客車キャクシャ列車レッシャも多オオく、米子ヨナゴ機関区キカンクDD51配置ハイチ量リョウ数スウは全国一ゼンコクイチの84両リョウを数カゾえた。
  米子ヨナゴ駅エキ
1983年ネン11月ツキ23日ヒ
38:4963レ・DD511026+貨車カシャ+後ゴ補機ホキDD511025
  新見駅を出発して約2.6Km進んだ、大カーブ(半径:300m)を行く、下り貨物列車である。
上記の乗務員時刻表のとおり、新見→布原間(3.9Km)の所要時間は7分だった(表定速度:33Km/H)。
この撮影時の印象は、荷が比較的軽かったためか40Km/Hぐらいの速度が出ていたのでは?と思えた。
以前に、ここを行く「D51後補機付貨物列車」の録音を聴いていたので、DD51になって明らかに速度が速い、と感じた。
今走っていれば当然注目を集めるであろうが、この頃は”中国地方のDD51全盛期”であり、周囲も「国鉄型車両オンリー」で珍しくなく、鉄道ファンとすれ違った事はなかった。
新見ニイミ→布原ヌノハラ
1984年ネン9月ツキ23日ヒ
39:4963レ・後アト補機ホキDD511025
 
苦ケ坂トンネル入り口まであと300m。サミット間近という事で、懸命に押し上げる後補機:DD51である。上にまっすぐ上がっている、排煙が力闘を物語っている。
近年キンネンまで走ハシっていた、石北セキホク本線ホンセンDD51の「金華→常紋(信)間・8072列車」が、走行音がよく似ている印象インショウを受ウけた。
あと、当時の岡山機関区運用で全国唯一でかつ特徴的だった事は、電化開業後から補機廃止の1985年3月13日まで「EL/DL共通運用」が存在した事コトである。
従シタガって、現在の3082レに相当する、4964レでは「前DD51+本務EF64+貨車」という編成を見る事コトができた(私自身は、残念ながら未撮影)。
新見ニイミ→布原ヌノハラ
1984年ネン9月ツキ23日ヒ
�B伯備線ハクビセン・EF64−0番バン代ダイの時代ジダイ
1:電化デンカ前マエ展示テンジ/381系ケイとEF6440
 
電化デンカ開業カイギョウの1年ネン4か月ゲツ前マエ、一足ヒトアシ先サキに電化デンカ後ゴに使用シヨウされる、電気デンキ車両シャリョウの展示テンジがあった。
とにもかくにも、山陰サンイン地方チホウの国鉄コクテツでは初ハジめての電化デンカのためか、注目度チュウモクドは高タカく、地元ジモトローカルTVニュースでも報道ホウドウされた。
EF6440号機ゴウキは、1979年ネン6月ツキに、甲府コウフ機関区キカンクから岡山オカヤマ機関区キカンクに転属テンゾクしていたが、1979年ネン11月ツキに米子ヨナゴ機関区キカンクに貸カし出ダしとなっていた。
従シタガって、この画像ガゾウは米子ヨナゴに貸カし出ダされていた時トキのものである。
この撮影サツエイの5か月後ゲツゴ、1981年ネン8月ツキに岡山オカヤマ機関区キカンクに戻モドっている。
1982年ネン7月ツキ1日ヒの伯備線ハクビセン電化デンカ開業カイギョウ直後チョクゴのEF64は、この40号機ゴウキを含フクめ3両リョウ(2・9・40)であった。
なおこの撮影サツエイ時ジ、EF6440の後方コウホウに、115系ケイも展示テンジされていた。
  米子ヨナゴ駅エキ(東方トウホウ)
1981年ネン3月ツキ16日ヒ
2:4965レ・EF649+貨車カシャ
 
電化デンカ開業カイギョウ1年ネン10か月ゲツ後ゴの、EF64−0番バン代ダイ牽引ケンイン下クダり貨物カモツ列車レッシャである。
岡山オカヤマ機関区キカンクEF64配置ハイチは、先サキに記載キサイしたとおり、当初トウショ3両リョウ(伯備線ハクビセン電化デンカ開業カイギョウ直後チョクゴ)であった。そのため、電化開業後もしばらくは貨物列車の主力はDD51であった。
この9号機ゴウキも、電化デンカ開業カイギョウ4か月ゲツ後ゴの1982年ネン11月ツキ19日ヒ付ツけで、篠ノ井シノノイ機関区キカンクから岡山オカヤマ機関区キカンクにやってきた。
仕業シギョウ数スウも少スクなかったが、この列車レッシャは、EF64限定ゲンテイ運用ウンヨウであったと記憶キオクしている。
EF64限定ゲンテイ運用ウンヨウのため、当然トウゼン新見ニイミ→生山ショウヤマ間カンの補機ホキは付ツかなかった。
●EF64牽引ケンイン定数テイスウ:60(600トン)
●DD51牽引ケンイン定数テイスウ(新見ニイミ⇔生山ショウヤマ):33(330トン)
●DD51×2牽引定数(新見⇔生山):62(620トン)
米子ヨナゴ駅エキ
1984年ネン5月ツキ18日ヒ
3:4961レ・EF643+貨車カシャ
  1985年ネン(昭和ショウワ60年ネン)3月ツキ14日ヒのダイヤ改正カイセイで、伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャは、米子ヨナゴ(操ミサオ)⇔岡山オカヤマ(操)間カン直通チョクツウ列車レッシャが完全カンゼンEF64化カされた。
これに伴トモナい、新見ニイミ⇔生山ショウヤマ間カンの補機ホキは廃止ハイシされ、長年ナガネン見ミる事コトのできた、伯備線ハクビセン上ノボり重連ジュウレン牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャ・下クダり後アト補機ホキ付ツキ貨物カモツ列車レッシャは見ミられなくなった。
また岡山オカヤマ機関区キカンクEF64−0番代配置量数も、従来の3両から8両(1・2・3・8・9・11・12・40)に増加した。
しかしながら、この時点ジテンではまだコンテナ列車レッシャ化カはされておらず、2軸ジク貨車カシャ主体シュタイの列車レッシャ編成ヘンセイだった。
この画像ガゾウは、電化デンカ開業カイギョウ後ゴ約ヤク3年ネン経過ケイカした時トキのもので、この翌日ヨクジツに「電化デンカ開業カイギョウ3周年シュウネン記念キネン・EF64三重サンジュウ連レン客車キャクシャ列車レッシャ」が走ハシった。
新郷ニイザト→上石見カミイワミ
1985年ネン8月ツキ2日ヒ
4:9933レ・EF64三重サンジュウ連レン(3+2+1)+12系ケイ
 
伯備線ハクビセン電化デンカ開業カイギョウ3周年シュウネンを記念キネンして、岡山オカヤマ⇔足立アシダチ間カン往復オウフクで運転ウンテンされた、EF64三重サンジュウ連レン牽引ケンイン臨時リンジ客車キャクシャ列車レッシャである。
この時点ジテンで、岡山オカヤマ機関区キカンクDD51・EF64共通キョウツウ運用ウンヨウで、岡山オカヤマ⇔新見ニイミ間カンに定期テイキ旅客リョカク列車レッシャが2往復オウフク運転ウンテンされていたが、もちろん重連ジュウレン・三重サンジュウ連レンでの運転ウンテンではなかった。
1972年ネン2月ツキ・3月ツキに、岡山オカヤマ→新見ニイミ間カンで、D51三重サンジュウ連レン牽引ケンイン客車キャクシャ列車レッシャは、合計ゴウケイ8回カイ運転ウンテンされたが、EF64三重サンジュウ連レンは、この日ヒ限カギりであった。
1985年ネン3月ツキ以降イコウ、岡山オカヤマ機関区キカンクEF64は8両リョウ態勢タイセイとなり、若ワカいナンバーの1〜3号機ゴウキも揃ソロっていた。その3両リョウが手テを繋ツナぎ三重サンジュウ連レンとなった事コトで、大オオきな話題ワダイとなった。
下クダり列車レッシャ先頭セントウの3号機ゴウキは、リボン風フウのヘッドマークが取トり付ツけられていた。
備中ビッチュウ川面カワモ→方谷ホウコク
1985年ネン8月ツキ3日ヒ
5:9938レ・EF64三重サンジュウ連レン(1+2+3)+12系ケイ
  NO.4の画像ガゾウの列車レッシャの復路フクロである。
往路オウロと異コトなり、EF64のトップナンバーが先頭セントウであった。ヘッドマークも「伯備線電化開業ハクビセンデンカカイギョウ3周年シュウネン」と明記メイキされ、「三重サンジュウ連レン」の大オオきく記載キサイされていた。
ステレオ録音ロクオンを並行ヘイコウしたが、気キ笛フエは2声コエだった。先頭セントウ1号機ゴウキと2番目バンメの2号機ゴウキが鳴ナらしていたが、3番目バンメの3号機ゴウキは完全カンゼンぶらさがりでジョイント音オンしかしていなかった。もちろん気キ笛フエ無ナしだった。
余談ヨダンだが、”三重サンジュウ連レンと言イえば、昔ムカシから布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウが定番テイバン”であったが、行イかなかった。
撮影サツエイは夕方ユウガタで完全カンゼン逆ギャク光ヒカリになる事コト、布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウ通過ツウカの設定セッテイであったため、迫力ハクリョクがやや落オちる事コト、アウトカーブ側ガワにケーブル・架線カセン柱チュウなどがあり、撮影サツエイ不向フムきとなってしまっていたなどの理由リユウだった。
新見ニイミ駅エキ
1985年ネン8月ツキ3日ヒ
6:4963レ・EF642+貨車カシャ
 
2号機ゴウキは、伯備線ハクビセン電化デンカ開業カイギョウ直後チョクゴ(4か月ゲツ後ゴ)、1982年ネン11月ツキ17日ヒ、稲沢イナザワ第二ダイニ機関区キカンクから転属テンゾクしてきた。
この機関車キカンシャも、1986年ネン11月ツキ1日ヒの改正カイセイで、EF64−1000番バン代ダイ化カがされた関係カンケイで、配属ハイゾクから約ヤク4年ネン後ゴの1987年ネン3月ツキ25日ヒ付ツけで名古屋ナゴヤ南ミナミ運転ウンテン区クに異動イドウした。
この撮影サツエイ時ジ、1985・3・14改正カイセイ(伯備線ハクビセン全線ゼンセン走破ソウハ貨物カモツ列車レッシャ完全カンゼンEF64化カ)後ゴ、岡山オカヤマ機関区キカンクEL2組クミ(使用シヨウ形式ケイシキEF64)は、仕業シギョウ番号バンゴウ51〜55の5仕業シギョウがあった。
また、岡山オカヤマ機関区キカンクELDL1組クミ(使用シヨウ形式ケイシキEF64・DD51)は、仕業シギョウ番号バンゴウ101・102の2仕業シギョウ(943−944・941−942の普通フツウ客車キャクシャ列車レッシャ)があった。
この時期ジキは、貨物カモツ列車レッシャのEF64化カが大オオきく進ススんだものの、コンテナ列車レッシャ化カはされていなかった。
新見ニイミ駅エキ
1985年ネン5月ツキ4日ヒ
7:4963レ・EF642+貨車カシャ
 
NO.6と同一ドウイツのEF64牽引ケンイン貨物カモツ列車レッシャが、上ノボり特急トッキュウやくも10号ゴウと列車レッシャ行イき違チガいをするところである。
381系ケイとEF64・0番代バンダイの列車レッシャ行イき違チガいが見ミられた事コトは、当時トウジの中央チュウオウ西線サイセン・篠ノ井線シノノイセンと同様ドウヨウであった。
この時トキは、やくも号ゴウ・貨物カモツ列車レッシャともに気キ笛フエ一声イッセイで出発シュッパツしていった。1989年ネン3月ツキ、基本的キホンテキに山陰サンイン地区チクでは出発シュッパツ気キ笛フエが廃止ハイシされたようだが、この頃コロはまだあった。
この撮影サツエイから33年ネン経過ケイカした、2018年ネン現在ゲンザイにおいて、使用シヨウ形式ケイシキは変更ヘンコウはないが、時代ジダイの変化ヘンカとともに細部サイブはいろいろと変化ヘンカしている。
●貨物カモツ列車レッシャの変化ヘンカ(主要シュヨウなもの)
�@使用シヨウ形式ケイシキ:EF64・0番代→EF64・1000番代(更新機)
�A発着停車場:米子操車場→伯耆大山駅
�B全貨物列車をコンテナ列車化
黒坂クロサカ駅エキ
1985年ネン5月ツキ4日ヒ
8:EF6411とDD511112
 
1974年ネン11月ツキまでは、この米子ヨナゴ機関区キカンクでは、SL:D51とDL:DD51との並ナラびが見ミられた。
その8年後ネンゴ、1982年ネン7月ツキ伯備線ハクビセン・山陰サンイン本線ホンセン(知井宮チイミヤ⇔伯耆大山ホウキダイセン)電化デンカ開業カイギョウ後ゴは、このように、DL:DD51とEL:EF64・0番バン代ダイの並ナラびが見ミられるようになった。
この撮影サツエイの33年後ネンゴの2018年ネン現在ゲンザイにおいては、EF64形カタの発着ハッチャクする停車場テイシャジョウが、米子ヨナゴ地区チクでは伯耆大山駅ホウキダイセンエキに変カわった事コト、DD51形カタ配置ハイチ量リョウ数スウの激減ゲキゲン(1985年ネン3月ツキ:81両リョウ→2018年ネン3月ツキ:2両リョウ)などの理由リユウにより、全マッタく見ミる事コトはできない。
このようなELとDLの並ナラびの光景コウケイは、後藤ゴトウ総合ソウゴウ車両シャリョウ所ショ(撮影サツエイ時ジは米子ヨナゴ機関区キカンク)においては、完全カンゼンに過去カコのものとなってしまった。

●許可キョカを得エて撮影サツエイ
米子ヨナゴ機関区キカンク
1985年ネン11月ツキ23日ヒ
9:EF641
 
1号機ゴウキは、この撮影サツエイの前マエ年トシの3月ツキ8日ヒ、八王子ハチオウジ機関区キカンクから転属テンゾクしてきた。
この1号機ゴウキも伯備線ハクビセン全線ゼンセン走破ソウハ貨物カモツ列車レッシャの完全カンゼンEF64化カ・生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カン補機ホキ廃止ハイシのため、岡山オカヤマ機関区キカンクに追加ツイカ投入トウニュウされた、5両リョウのうちの1両リョウである。
そしてやはり1986年ネン11月ツキ1日ヒの改正カイセイで、EF64−1000番バン代ダイ化カがされた関係カンケイで、約ヤク2年ネン後ゴの1987年ネン4月ツキ1日ヒ付ツけで下関シモノセキ運転ウンテン所ショに異動イドウした。
NO.4・5に、1〜3号機ゴウキの三重サンジュウ連レンの画像ガゾウを掲載ケイサイしたが、伯備線ハクビセンEF64・0番バン代ダイの歴史レキシ自体ジタイわずか4年ネン4か月ゲツ(貨物カモツ列車レッシャ牽引ケンイン用ヨウとして、臨時リンジ客車キャクシャ列車レッシャ用ヨウとしての用途ヨウトは除ノゾく)であったため、三重サンジュウ連レンはその1日ヒ限カギりであった。
米子ヨナゴ機関区キカンク
1986年ネン3月ツキ9日ヒ
10:EF648
  8号機ゴウキは、この撮影サツエイの年トシの3月ツキ11日ヒ、篠ノ井シノノイ機関区キカンクから転属テンゾクしてきた。
伯備線ハクビセン全線ゼンセン走破ソウハ貨物カモツ列車レッシャの完全カンゼンEF64化カ・生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カン補機ホキ廃止ハイシのため、岡山オカヤマ機関区キカンクに追加ツイカ投入トウニュウされた、5両リョウのうちの1両リョウである。
1986年ネン11月ツキ1日ヒの改正カイセイで、EF64−1000番バン代ダイ化カがされた関係カンケイで、約ヤク2年ネン後ゴの1987年ネン3月ツキ15日ヒ付ツけで高崎タカサキ機関区キカンクに異動イドウした。
電化デンカ前マエの時点ジテンで、381系ケイ電車デンシャとEF64形カタの伯備線ハクビセンへの導入ドウニュウは決キまっていた。
しかしながら、EF64形カタについては、”元祖ガンソEF64形カタ”とも言イえる0番バン代ダイの伯備線ハクビセンでの活躍カツヤク(定期テイキ列車レッシャ)は、4年ネン4か月ゲツと、思オモいのほか短ミジカかった。
なお、EF64−0番バン代ダイによる臨時リンジ貨物カモツ列車レッシャ牽引ケンインは、1987年ネン2月ツキまで存在ソンザイした。
岡山オカヤマ機関区キカンク
1985年ネン8月ツキ3日ヒ
11:4963レ・EF6411+貨車カシャ
  11号機ゴウキは、この撮影サツエイの前マエ年トシの3月ツキ9日ヒ、八王子ハチオウジ機関区キカンクから転属テンゾクしてきた。
この11号機ゴウキも伯備線ハクビセン全線ゼンセン走破ソウハ貨物カモツ列車レッシャの完全カンゼンEF64化カ・生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カン補機ホキ廃止ハイシのため、岡山オカヤマ機関区キカンクに追加ツイカ投入トウニュウされた、5両リョウのうちの1両リョウである。
そしてやはり1986年ネン11月ツキ1日ヒの改正カイセイで、EF64−1000番バン代ダイ化カがされた関係カンケイで、約ヤク1年ネン半ハン後ゴの1986年ネン10月ツキ26日ヒ付ツけで稲沢イナザワ機関区キカンクに異動イドウした。
この頃コロは、山陰サンイン本線ホンセン城崎キノサキ(現ゲン城崎キノサキ温泉オンセン)⇔福知山フクチヤマ間カン・福知山線フクチヤマセン電化デンカ開業カイギョウ直前チョクゼンであり、旧型キュウガタ客車キャクシャ列車レッシャをはじめ、まだまだ数多カズオオくの客車キャクシャ列車レッシャが山陰サンイン本線ホンセンに健在ケンザイであった。
そのため、この伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャ以外イガイにもそれらの列車レッシャを見ミる事コトが出来デキて、趣味的シュミテキには楽タノしいところであった。
伯耆大山ホウキダイセン→東山ヒガシヤマ公園コウエン
1986年ネン7月ツキ20日ヒ
12:4963レ・EF6412+貨車カシャ
  12号機ゴウキは、この撮影サツエイの前マエ年トシの3月ツキ15日ヒ、八王子ハチオウジ機関区キカンクから転属テンゾクしてきた。
この12号機ゴウキも伯備線ハクビセン全線ゼンセン走破ソウハ貨物カモツ列車レッシャの完全カンゼンEF64化カ・生山ショウヤマ⇔新見ニイミ間カン補機ホキ廃止ハイシのため、岡山オカヤマ機関区キカンクに追加ツイカ投入トウニュウされた、5両リョウのうちの1両リョウである。
そしてやはり1986年ネン11月ツキ1日ヒの改正カイセイで、EF64−1000番バン代ダイ化カがされた関係カンケイで、岡山オカヤマ機関区キカンク配属ハイゾクの約ヤク1年ネン半ハン後ゴ、1986年ネン10月ツキ27日ヒ付ツけで稲沢イナザワ機関区キカンクに異動イドウした。
余談ヨダンであるが、EF64・0番代バンダイの送風機ソウフウキ・ブロア音オンは、EF64・1000番バン代ダイ・ブロア音オンよりも音オトが大オオきく、男性的ダンセイテキな力強チカラヅヨさがある。
1000番代は、この音を静かにするため、設計変更されたと聞く。
1000番代の相対的に静かな女性的ジョセイテキな柔ヤワらかいブロア音も、それはそれで魅力がある。
新見ニイミ駅エキ
1985年ネン8月ツキ3日ヒ
13:阿ア哲テツ峡キョウを行イく、4963レ・EF64
 
EF643号機ゴウキ牽引ケンインの下クダり貨物カモツ列車レッシャである。
�@ー6・�Aー2と同ドウ地点チテンであり、「定点テイテン観測カンソク」画像ガゾウとなっている。
画像ガゾウでは分ワかりにくいが、やや強ツヨい雨アメであり、録音ロクオンは断念ダンネンした記憶キオクがある。
D51の2.6倍バイのパワーを誇ホコる、EF64形カタ※であるが、布原ヌノハラ信号シンゴウ場ジョウ通過ツウカ後ゴ、半径ハンケイ270mの急キュウカーブ〜15.2‰上ノボり勾配コウバイのため、D51・DD51それぞれの時代ジダイ同様ドウヨウに、ここはゆっくりと通過ツウカして行イった。
唸ウナるMT52釣ツ掛カモーター音オンが、ここでも印象的インショウテキであった。

※動輪ドウリン周シュウ最大サイダイ出力シュツリョク
●D51(石炭セキタン焚タ):1280PS
●D51(重油ジュウユ併ヘイ燃ネン):1590PS
●DD51:1540PS
(エンジン出力シュツリョク:2200PS)
●EF64:3360PS
布原ヌノハラ(信シン)→備中神代ビッチュウコウジロ
1986年ネン7月ツキ19日ヒ
14:阿ア哲テツ峡キョウを行イく、4963レ・EF64
 
下クダり貨物カモツ列車レッシャを、旧キュウ国道コクドウ182号線ゴウセンから俯瞰フカン撮影サツエイしたものである。
長ナガい編成ヘンセイではないので、D51・DD51であっても単機タンキ牽引ケンインとなるであろうが、米子ヨナゴ操車ソウシャ場ジョウ行イき貨物カモツ列車レッシャが全スベてEF64牽引ケンインとなってからは、全ゼン貨物カモツ列車レッシャが単機タンキ牽引ケンインであった。
「国鉄コクテツ色イロEF64・0番バン代ダイ+非ヒコンテナ貨物カモツ列車レッシャ」の編成ヘンセイは、”昭和ショウワの貨物カモツ列車レッシャ”と言イえるであろう。
箱庭ハコニワのような美ウツクしい風景フウケイをバックに、模型モケイの世界セカイのような編成ヘンセイの貨物カモツ列車レッシャが駆カけて行イく姿スガタは、D51でなくともとても印象インショウ的テキなものであった。
余談ヨダンであるが、画像ガゾウの先頭セントウ・EF64が通過ツウカ中ナカの第ダイ20西川ニシガワ橋梁キョウリョウの橋脚キョウキャクも、第ダイ23西川ニシガワ橋梁キョウリョウ同様ドウヨウに補強ホキョウされているのが確認カクニンできる。
昭和ショウワ40年代ネンダイに撮影サツエイされた、ここを行イく「逆ギャク後ゴD51付ツき貨物カモツ列車レッシャ」を見ミると、これよりかなり多オオい20〜30両リョウの貨車カシャを連結レンケツしている。
布原ヌノハラ(信シン)→備中神代ビッチュウコウジロ
1986年ネン8月ツキ16日ヒ
15:阿ア哲テツ峡キョウを行イく、4963レ・EF64
 
NO.13の画像ガゾウの橋梁キョウリョウから一ヒトつ備中ビッチュウ神代コウジロ側ガワの橋梁キョウリョウ、第ダイ19西川ニシガワ橋梁キョウリョウを渡ワタり、鳥越トリゴエトンネルに入ハイるEF64である。
次位ジイに連結レンケツされた貨車カシャが、2軸ジク無蓋ムガイ車シャであり、昭和ショウワの貨物カモツ列車レッシャらしい印象インショウである。
ステレオ録音ロクオンを並行ヘイコウしたが、比較的ヒカクテキ速度は速く、長ナガい気キ笛フエを鳴ナらしてトンネルに吸スい込コまれていった。
この撮影サツエイの14年前ネンマエ、同一ドウイツアングルで「783レ・足立アシダチ行イキ・逆ギャクD51524+貨車カシャ」を撮影サツエイしたが、芳カンバしくなかったため、リベンジで・EF64とDD51を同日ドウジツに、全マッタく同一ドウイツのアングルで撮影サツエイした。
繰クり返カエしになるが、伯備線ハクビセンは橋梁キョウリョウとトンネルの連続レンゾクであり、背景ハイケイの美ウツクしさも相アイまって、同一ドウイツ場所バショを何度ナンド訪オトズれても飽アきないものである。
布原ヌノハラ(信シン)→備中神代ビッチュウコウジロ
1986年ネン9月ツキ6日ヒ
16:阿ア哲テツ峡キョウを行イく、991レ・DD51
 
NO.14と同一ドウイツ日ヒ・同一ドウイツアングルの、DD51牽引ケンイン足立アシダチ行イキ小ショウ運転ウンテン貨物カモツ列車レッシャである。
緩急カンキュウ車シャの連結レンケツがあり、これも”昭和ショウワの貨物列車カモツレッシャ”らしい印象インショウである。
1985年ネン3月ツキ14日ヒダイヤ改正カイセイで、岡山オカヤマ機関区キカンクDD51の運用ウンヨウは大オオきく減少ゲンショウし、DD51単独タンドク仕業シギョウ数スウは2仕業シギョウ(111・112)のみとなった。
この991列車レッシャと折オり返カエしの992列車レッシャは、111番バン仕業シギョウであった。
ちなみに112番バン仕業シギョウは、岡山オカヤマ(操)⇔庭瀬ニワセ間カン・後ゴ4084レ−1084レであり、側線ソクセンに架線カセンが無ナいため、EF64ではなくDD51牽引ケンインとされた。
1986年ネン10月ツキ、当時トウジの国鉄コクテツ飾磨シカマ港コウ線セン廃止ハイシに伴トモナい、111番バン仕業シギョウの991・992列車レッシャは廃止ハイシとなった。
1986年ネン11月ツキ1日ヒのダイヤ改正カイセイで、岡山オカヤマ機関区キカンクDD51の仕業シギョウは無ナくなった。
布原ヌノハラ(信シン)→備中神代ビッチュウコウジロ
1986年ネン9月ツキ6日ヒ
17:岡山オカヤマ機関区キカンクDD51最後サイゴの活躍カツヤク�@
 
出発シュッパツを待マつ927M・115系ケイと、足立アシダチ行イキ991列車レッシャ・DD511021である。
この列車レッシャの編成ヘンセイは、米子ヨナゴ操車場ソウシャジョウまで行イく直通チョクツウ貨物カモツ列車レッシャと比較ヒカクすると相対的ソウタイテキに短ミジカく、常ツネに10両リョウ以下イカだった。
この撮影サツエイ時ジ、山陰サンイン本線ホンセンでは旧型キュウガタ客車キャクシャ列車レッシャが多オオく設定セッテイされ、米子ヨナゴ機関区キカンクDD51配置ハイチ両リョウ数スウも81両リョウを数カゾえ、”DD51の時代ジダイ”の真マっただ中ナカであった。
反面ハンメン伯備線ハクビセンでは、1985年ネン3月ツキ14日ヒダイヤ改正カイセイ以降イコウ、既スデにDD51の時代ジダイは終オわり、完全カンゼンに”EF64の時代ジダイ”に移行イコウしていた。
岡山オカヤマ機関区キカンクDD51形カタは、脇役ワキヤクに回マワっていた。
927Mは、米子ヨナゴ側ガワ先頭セントウに「クモニ143形カタ」を連結レンケツしており、この画像ガゾウでも確認カクニンできる。
新見ニイミ駅エキ
1985年ネン5月ツキ4日ヒ
18:岡山オカヤマ機関区キカンクDD51最後サイゴの活躍カツヤク�A
  新見ニイミ運転ウンテン区クで休ヤスむ、DD51・DE10である(左からDE10・DD511023・DD51885)。
この年トシの3月ツキ14日ヒダイヤ改正カイセイで、伯備線ハクビセン貨物カモツ列車レッシャの主力シュリョクがEF64・0番代バンダイとなったため、それまで主力シュリョクであった、岡山オカヤマ機関区キカンクDD51形カタは多オオくが休車キュウシャとなった。
この撮影サツエイ時点ジテンで、EF64・0番代バンダイとDD51共通キョウツウ運用ウンヨウで、伯備線ハクビセン岡山オカヤマ⇔新見ニイミ間カン普通フツウ客車キャクシャ列車レッシャ2往復オウフクの仕業シギョウがあったため、この画像ガゾウ中央チュウオウのDD511023号機ゴウキは、その仕業シギョウに就ツいていた。。
一方イッポウで、岡山オカヤマ機関区キカンク構内コウナイでは、休車キュウシャになったDD51形カタが、数量スウリョウ単位タンイの連結レンケツ状態ジョウタイで留置リュウチされていた。
この撮影サツエイ日ヒで稼働カドウしていたDD51形カタは、配置ハイチ13両リョウ中ナカ、わずか3両リョウ(1018・1019・1023)のみで他タは1休キュウ・特トク休キュウであった。
新見ニイミ運転ウンテン区ク
1985年ネン8月ツキ3日ヒ
19:岡山オカヤマ機関区キカンクDD51最後サイゴの活躍カツヤク�B
 
新見ニイミ駅エキ出発シュッパツ後ゴ、約ヤク3Km続ツヅく急キュウ勾配コウバイを上ノボり、苦ニガケ坂サカトンネルを抜ヌけると、この第ダイ23西川ニシガワ橋梁キョウリョウを渡ワタる。
いわゆる、”D51三重サンジュウ連レンの鉄橋テッキョウ”であるが、これは逆ギャクアングル、旧キュウ国道コクドウからの撮影サツエイである。
模型モケイの世界セカイのような、のどかさのある短編成タンヘンセイだが、やはりD51三重サンジュウ連レン・2492列車レッシャも連結レンケツしていた、最後尾サイコウビのホキ7000形カタ貨車カシャ2両リョウが印象的インショウテキであった。
画面ガメン左上ヒダリウエ付近フキンがD51三重サンジュウ連レンの撮影地サツエイチとして賑ニギわった場所バショだが、草木クサキの生オい茂シゲる夏場ナツバでもあったため、D51三重サンジュウ連レンが消キえて14年ネン経過ケイカしたこの時点ジテンで、ほぼ元モトの状態ジョウタイに戻モドってしまっていた(夏場ナツバの旧キュウお立タち台ダイからの撮影サツエイは、不可能フカノウとなっていた)。
国鉄型車両が当たり前だったためか、岡山オカヤマ機関区キカンクDD51が最後サイゴの活躍カツヤクをしていたにもかかわらず、鉄道テツドウファンに出遭デアった記憶キオクが無ナい。
新見ニイミ→布原ヌノハラ(信シン)
1986年ネン7月ツキ19日ヒ
20:岡山オカヤマ機関区キカンクDD51最後サイゴの活躍カツヤク�C
 
足立アシダチ駅エキで出発シュッパツを待マつ、992列車レッシャである。
生ナマ石灰セッカイを積載セキサイしたホキ7000形カタ2両リョウを連結レンケツしている。
1986年ネン10月ツキ、飾磨シカマ港ミナト線セン廃止ハイシに伴トモナい、このホキ7000形カタによる石灰石セッカイセキ輸送ユソウも終了シュウリョウするが、その3か月ゲツ前マエの姿スガタである。
1970年代ネンダイ前半ゼンハンまでは、足立アシダチ→飾磨シカマ港ミナト間カンに、10〜15両リョウ編成ヘンセイの石灰石セッカイセキ専用センヨウ列車レッシャが2本ホン設定セッテイされていた。
しかしながら、時代の変化〜鉱石輸送のトラック化に伴い、本数削減・短編成化〜廃止の道を辿る事になってしまった。
1993年ネン頃ゴロから、岡山オカヤマ操車場ソウシャジョウ⇔米子ヨナゴ操車場ソウシャジョウ(伯耆大山ホウキダイセン)間カンの貨物カモツ列車レッシャに関カンしては、ずっと4往復オウフクの設定セッテイが不変フヘンであり、せめてもの救スクいである。
足立アシダチ駅エキ
1986年ネン7月ツキ19日ヒ