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最終更新日2012年05月18日

2009ふらここ展オープニング講演

緑石の「表現主義」(レジュメ)

(2009/8/28:倉吉博物館・鳥取県文化団体連合会主催)

躍動する魂のきらめき―日本の表現主義(栃木県立美術館等)

表現主義とは20世紀の初め頃、ドイツをはじめヨーロッパ各地で起こった美術運動です。形や色の表現に内面や精神を強く表わそうとするこの運動は、日本にも伝わりました。日本でも明治末から大正期に、内面の感情生命感を表わした個性的で力強い芸術表現が各分野で生まれ、この動向は日本独自の展開を示しました。(再現→表現)

cf.柳瀬正夢・神原泰VS河本緑石「病気の図」

神原泰                柳瀬正夢            柳瀬正夢             柳瀬正夢 

 

 病気の図                           自画像

石井獏と山田耕筰(「黎明の看経」「野人創造」で協働=斎藤佳三デザイン)

石井獏は1923年渡欧以前に山田からアレクサンダー・サハロフというカディンスキーと親しい舞踏家に憧憬。

石井漠倉吉公演;1929(昭和4年)秋。旭座  1931(昭和6年)秋。

 

f.表現主義ふう(写生→主観)

  『層雲』史上での位置づけ

山頭火「現在の私は、宗教的には仏教の空観を把持し、芸術的には表現主義に立脚してゐることを書き添へておかなければならない」(1933其中日記第2巻)

   光すらすら人間に追はるる蛇1923

   冬の夕焼けさびしい指が生える1925

   私の胸の黒い夜沼の蛇だ1925

   ほうと百姓雀追ふた1926

   魂に眼があるきよとんとしてゐる1926

   荒海の屋根屋根1926

   暗い空の雪風に眼がゐる1927

死んで俺が水の中にすんでゐる夢だつた1927

     狂つた時計ばかり背負はされてゐる1927

『層雲』の俳句の流れは、「初期には自由律俳句の印象的リズムが確立された。やがて大正末期の多彩な文芸思潮のもとで、表現派風な作品を詠んだ河本緑石などの活躍を見たが、関東大震災を契機として尾崎放哉や種田山頭火などの放浪人生を詠んだ短律表現による心境的作風が「層雲」にもてはやされた」soneda―随句)とされる。

『尾崎放哉随筆集』尾崎放哉著『尾崎放哉随筆集』尾崎放哉著   咳をしても一人    尾崎放哉のもっとも有名な俳句である。沈思しつつ、この句を味わってみよう。天涯孤独の男の姿が浮かんでくる。尾崎は五・七・五という句型を無視し、季語という俳句の約束事から離れて、自分の内奥を凝視して、ポツンと句を吐き出す。 尾崎の句はそのすざまじい自己凝視で、多くの支持者を勝ち得てきた。大正末期から昭和初期まで短い俳句人生だったが、現代でも得難い読者が多い。  尾崎はドロップアウターのはしりだ。鳥取県出身、帝国大学法科大学政治学部を卒業した。末は博士か大臣かの時代である。地元選出の国会議員になってもちっとも不思議ではない。高校時代に夏目漱石から1年間英語を学んだ。 尾崎は酒好きだった。酒癖は最悪だった。酔うとくどくなり、次第に友人たちが離反していった。しかし、それこそ尾崎が望んでいたことだった。  当時はドロップアウトなんて言葉はなかった。「離俗」という。俗世間から離れる、という意味だ。そして、破格の俳句を詠み続けた。漂流子の好きな句をふたつ。 何か求むる心海に放つ        心まとめる鉛筆とがらす   この2句では後者が好きだ。ひとりで孤独に鉛筆を鋭く削っている。怖い怖い、だけどこの情景に漲る孤独感は、いい知れない。見事に自己の内奥を表現している。破格の俳句は表現主義の最適な道具のようにも思う。 (松島駿二郎)

 

参考資料

『躍動する魂のきらめき日本の表現主義』(栃木県立・兵庫県立・名古屋市・岩手県立各美術館及び松戸市教育委員会発行:2009年)・石井漠関連写真は河本家提供)

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