倚子の会 河本緑石 八橋(やばせ) PTAについて 押本電波(休) なぜ倉吉西高なのか 

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最終更新日2012/05/18

なぜ(倉吉)西高か

…独断と偏見を交えながら  

05/12/04 更新内容 卒業式当時生徒会担当だった高多彬臣先生のエピソードを追加。

04/12/08 更新内容 赤碕高校廃校反対運動を『赤碕町誌』から転載

倉吉西高の略年譜

大正3(1914)年6月、倉吉町立実科高等女学校開設

大正7(1918)年10月、倉吉町余戸谷町3059番地に校舎新築

大正10(1921)年3月、鳥取県立倉吉高等女学校と改称

昭和28(1953)年4月、鳥取県立倉吉西高等学校(建前は男女共学)と改称

昭和43(1968)年4月、家政科募集停止、

昭和44(1969)年4月、男子入学再開 、小学区制(郡・市別)から中学区制(郡市共通)へ、

昭和57(1982)年4月、松本重徳校長就任

昭和60(1985)年3月、「生徒憲章」策定

昭和61(1986)年4月、高多彬臣校長(平成15年度から鳥取県教育委員長)就任

平成2(1990)年4月、青目 正校長就任

平成6(1994)年4月、永江重昭校長就任

平成9(1997) 年4月、國本洸紀校長就任

平成11(1999)年4月、単位制・2学期制導入

平成13(2001)年4月、岸田美明校長就任

平成16(2004)年4月、岸田校長「倉吉東高」へ転任 、

山下俊一校長就任

平成16(2004)年11月11日13時、創立90周年式典(体育館)

14時、記念講演(杉本勝子氏・西高11回卒)(体育館)

15時20分、記念リサイタル(シャンソン:名和英子氏・同8回卒、ピアノ:中嶋由紀子氏・同38回卒)(体育館)

17時30分、記念祝賀会(倉吉シティホテル¥3,000)

*懇親会で感じたこと はこちら

というところで、前身は女学校。全国の「東西南北」高校がそうであるように、

男子校は「東」高であり、女子高は「西」高、という倉吉も例外ではない。

戦後、建前は男女共学であったが、西高第1期の道祖尾篤彦(前同窓会長)さんたち男子は、

第4期までの20名程度で、以後昭和44(1969)年までなし

学校間格差の大きい鳥取県

鳥取県は学校間格差が大きいといわれる。

県外者が鳥取県内に赴任してしばらくするとよくわかるそうである

原因は確定したものを聞いたことはないが、

県内の産業が貧弱で、「都に出る(立身出世)」必要があったこと

中学区制にしたところで、人口の少ない鳥取県では学区内の高校の数そのものが少ないこと

(平成15年度この鳥取県中部地区には、東・西・鳥取中央育英・総合産業・農・北<私立>の6校しかない)

旧制中学を前身とする「進学校」を頂点として、はっきりとランク付けが住民からなされている

校数が少ないため格差が目立つ

…などであろうか

東大卒キャリアに縋っていた鳥取県経済

片山現知事の教育方針は定かではないが

前西尾知事までは、県内の政財界の要望からか、東大を目指す進学校の更なる先鋭化が県是となっていた

つまり、産業の乏しい鳥取県の「発展」のためには

東大卒のキャリア官僚を育成し、そのコネで「発展途上県援助費」を確保するのである

そしてキャリアたちへのご褒美は、県選出国会議員、県知事、県庁所在地市長にさせることである

お隣の島根県には及ばずとも、今まではこれでよかったのだろう

また、ものの豊かになった現代、東大生の親の8割は高額所得者であるという

ある意味ではアメリカふうになってきたわけであるが

それだけに所得の低い鳥取県では東大生が減るはずである

いずれにしても、地方、国を問わず経済の低迷で財政難の今

もう「発展途上県援助費」は望めない

地方自治も変わらねばならない時代

代わって望まれるのは、鳥取県を「独立」させうる構造変革のできる人材の養成である

ある意味では片山知事は時宜を得て登場したわけである

「東高」と西高

さて、鳥取県中部地区では、倉吉東高がトップである。

旧制男子中学を前身とし、県内外も含めて地方のリーダーを多く輩出している

地区唯一の進学校だったのだから当然である

したがって地区住民も「東高」卒というだけで地方のエリートとみなす

一方、倉吉西高は、昭和43(1968)年の男子入学再開までは「女子高」ということで

それなりの地位を保っていた

第二「東高」を脱却せよ

が、中学区制と男子入学での更なる序列化の中で第二「東高」という存在にならざるを得なくなった

そこで、昭和57(1982)年、松本重徳校長(この人は倉吉東高の進学指導と学園祭の導入で有名であった)

の就任後、第二「東高」を返上せんがために

生徒憲章=校則廃止

自主自律を重んじた「生徒憲章」が昭和60(1985)年策定され、「校則」がなくなった

昭和61(1986)年、高多彬臣校長(京都大西洋史科卒。その博識とリベラルな思想、クリスチャンの博愛は「生徒憲章」の指導に相応しい)の就任でその「校風」の実践がなされた

以後、青目 正、永江重昭、國本洸紀、岸田美明の代々の校長へと続く

私の「東高」のころ…余談 ですが、そして「東高アレルギー」

実は、この松本重徳校長から現在(H15)の岸田美明校長まで全員

私の倉吉東高時代に在任の先生たちだったのである

私の高校生期間は、昭和43(1968)年4月から同46(1971)年3月までである

当時は世界的なベトナム反戦運動からスタートした学生運動が

ピークを過ぎて、「流行」も過ぎて、国内で鎮圧されかかるときであった

私はひとりで「倉吉高校生べ平連(ベトナムに平和を市民連合)」をやっていた

校内では十数名が大学生から降りてきたセクトをなかば趣味的にやっていた

昭和45(1970)年4月、それまで長いあいだ地元出身の校長だったのが

いきなり鳥取西工高の岸秀正校長(故人)が転任となった

あわせて、生徒の規律がやかましくなり、処分も厳格になった

当時の県内でも唯一と言っていいくらいに高校生の「政治活動家」の「残党」の多い「東高」だった

恐らくその管理強化とその存在を容認する教員たちの管理強化のための人事であったと思う

「翼をください」…赤碕高校 廃校反対運動

私たちの活動は、主に生徒会の活動…当時あった「東高」のシンボル「学生帽」の廃止運動など

校外では、ビラ配りや赤碕高(30年後の現在は鳥取中央育英高に吸収合併)廃校反対運動などであった

(…このときのガリ刷りで近視になった)

赤碕高廃校反対運動では、東高内で赤碕高生徒会を招いた集会で廃校反対とその「連帯」を訴えた

それを認めた教員も偉い!

また、当時の赤碕高の生徒会室(?)での※松井幸伸生徒会長の

「あんたら<東高>生に、俺ら落ちこぼれ<赤高>生の気持ちがわかるか?」

「同情なら止めてくれ!」

(…この衝撃的な言葉のお蔭でその後の私の活動の性格が変わった…つまり同情ではなく彼らと自分たちとの置かれた位置関係をどう捉えるのか、そのことにより問題点はどこなのかが見えてくる、このばあい、高校の序列化末端の切り捨て、高校生の分断化など…結果的には「廃校」は撤回された)

と言われたのは今でも忘れられない…ジェームス・三木の作「翼をください」はそれらがダブって見えた

※2004年8月19日、第54回全国高等学校PTA連合大会香川大会へ出席した際、鳥取県団の懇親会があり、

元赤碕高校生徒会長松井幸伸氏が鳥取中央育英高の平成16年度PTA会長であることがわかった 

30年前、赤碕高廃校反対の先頭に立った元生徒会長が、その赤碕高を吸収合併した鳥取中央育英高のPTA会長になるなんて不思議な縁ではないか…ただしそのことを知るPTA会員は少ないだろう…ね、松井さん

卒業式「粉砕」…

ところが新校長管理下の校内では、「活動家」以外の生徒の処分が相次いだ

見せしめの意味もあったと思うが、当時では「停学処分」相当のところ

バンバン「退学処分」となった (現在の倉吉北高がそうらしい)

そこで、被停学者の「友人」たちが涙ながらに私たちのところへ、処分撤回運動をもちかけてきたのである

その処分撤回運動は、@被処分者に対する「同情」では運動にならないA被処分者たちの「暴力行為」は非難されるべきだが、本来なら教育的配慮が必要であり、高校生にとって「死刑」を意味する「退学」処分は教育的ではないB今回の処分は被処分者だけが目的ではなく、「活動家」の排除が目的である、したがって処分反対、ということだったように思う。

処分撤回運動の反応はゼロに等しい。それどころではない、受験が目前だ

学園祭もド白け

おまけにもちかけてきた「友人」たちも、受験勉強でみな背に腹はかえられない

「品行方正」なる「活動家」の私たちは、一人ずつ校長室で堂々巡りの「議論」の軟禁を重ねた

「活動家」も受験科目以外は「内職」が当たり前

そこまでしてお前どこの大学に入るんだい!と言いたかった

まして、「普通」の生徒は「問題」に関わりあいになるのを怖れていた、避けていた

…処分された生徒のことを当時は涙ながらに訴えていたのに…である

もちろん「普通」の生徒は1年生の1学期から「内職」が当たり前だった

……そんなこんなで高校生活3年間の「総括」として3月10日の卒業式を妨害することになった

校歌にかえて「インターナショナル」を歌い

校長式辞には欲求不満の「普通」の生徒も野次った

式終了間じか、一人がマイクを占拠しアジる、私はその顔を隠し守る役

ある者はマイクのコードやアンプを守った

翌日の「日本海新聞」には小さく「しかしすぐに騒ぎはおさまった云々」と載っていた

あとは処分があるかないかを待つのみ…3月31日まで

何もなかった……。

「進路指導」までしてくれて…

これらの「騒ぎ」のときに、真剣に見守ってくれていた先生もあった

「活動家」であるにもかかわらず「進路指導」までしてくれて…

私たちの「処分」は議論されたであろうが

「そのまま」のほうがことが収まる、となったに違いない

で、当時見守ってくれた先生たちが

松本重徳さんから岸田美明さんまでの代々の西高校長たちである

(2005.12.2「緑石シンポジウム」の打合せのため、倉吉市内の喫茶店で私、波多野氏、当時生徒会担当であった高多彬臣元倉吉西高校長の3人で会った。現在の倉吉西高の様子を話す中で、当時の東高の話題が出た。

高多先生は、あの出来事は一生忘れられない。一つは戦後まもなく豹変した軍国教師を自分が批判したように、当時の生徒から「ヒューマニズムを掲げる高多先生が生徒を処分するなんて信じられない!」という言葉を浴びせられ返す言葉がなかったこと。

処分撤回を迫る生徒たちの声を生徒会担当教師として、帰宅中の校長に処分の再考を願ったが「職員会で決めたんだろ、だったら、再考云々には及ばないだろ、自分で生徒を鎮めなさい」と言われ、「職員会は校長の諮問機関であって、最終的には校長の判断ではないか。多くの生徒たちが自主的に処分撤回を迫り動いているこのエネルギーを無視するのか」と失望し、あらためて校長の存在の大きさを知った旨話された。

また、あの卒業式も忘れられないと。卒業式に卒業生が騒ぎ、最後にはマイクを握って校長批判を展開、東高で最初で最後の出来事かもしれない。卒業式後例年なら職員での打上げがあるのだが、あの年だけはなかったと。そして、生徒も職員もいなくなった冷たい教室で、季節の終わりに珍しく降る雪を眺めながら、呆然としていた。と、瞬間的には嗚咽を交えながら語られた。この内容は不正確ではあるが主旨は間違っていないと思う。このような教師の存在に改めて感謝するとともに、高多元校長らが育んでこられた倉吉西高をより大切な存在に感じたのである)

一方、批判的であった先生たち(風見鶏も含め)が結果的に「東高」の校長の面々である

そして、「東高」は、旧来の東大卒キャリアの輩出を今も目指している

東大生あるいは「東高」生

東大生の親の約8割が高額所得者…外交官・大学教授・上場会社役員等々…であるように

「東高」の親も・・・医師・地方公務員・教員・議員・会社役員等々…が多いように思える

東大卒のキャリアが幼稚な賄賂で逮捕されたり、セクハラで検挙されるなど

「常識」に欠けるのは、市井の生活を知る由もないからだと思う

政治「屋」の世界も同じだ

そもそも、多少IQが高くて何不自由なく勉強さえしておれば

何人かは東大へ入れる

倉吉東高―東京大学経済学部卒―公認会計士(二代目税理士)

とくれば、田舎では相当な名士である。2002年12月早朝、倉吉駅付近の路上で、こともあろうにその御仁が通学途中のうちの長男の自転車と接触事故をおこした、らしいのである。自転車は破損しながらもなんとか学校にたどり着いたらしいが、著しい変形をみたらしい。あとはかすり傷程度であったという。

そこで、公認会計士は早朝我が家へ電話を掛けてきて(というのも、我が会社の決算処理の面倒を見てもらっていた)、事故を起こした旨、長男は無事らしい、万が一、重大な怪我に発展するようなことがあれば連絡するように、とりあえずは人身事故にはしない、自転車は弁償する、今日は忙しいので電話で失礼する。

そして、2,3ヶ月経過して長男に異常も見られず、ホームセンターで購入した安物の自転車の領収書と、今後これ以上の責を問わない旨の文書を添付、送付した。

2,3日してその金額どおりの銀行振込があった。以後、1年あまり経過したがそれでお仕舞い。

で、こんな態度で「東大卒」の「名士」かい!せめて、振り込んだときくらい「振り込んだよ」のひと言くらいあってもよくないかい、と思うのである。当日の電話のほかには何事も一切なし、なのである。

並みの人間でも、日を改めてでも侘びに行くだろうに…。お金を振り込んで、あとは知らん振り。ご立派。

公認会計士とくれば、税理士よりはるかに高度に認知され、法律の専門家でもある。体型までは言うまい。

以上。こういう方を東高のかがみにはしないように…。

なお、私の従兄弟にも、東大法学部卒の経済産業省キャリアと国際基督教大-東大大学院卒の厚生労働省のキャリアがいる。どちらもあまりつきあいはないが、共通していることは特異な性格の母親に育てられたことである。

たかが現在の中学校で1番とったくらいで威張るな

大体、昔の私の中学校(昭和42<1967>年当時、小学区制、したがって越境入学)で言えば

そう1学年300人くらいであれば、その5%くらいが東高へいき、そのトップくらいは東大、京大へ入れる

いろ〜んな人間のいるいるなかで育ち、トップにたつ人は、幅広い教養と見識を持つ

いわゆる世間が広いし、人を押し退ける必要もないし、正義がわかる

どの高校だって、大学だってすばらしい奴はいる

しかし、その高校、大学を見るばあいはその平均像で語るべきである

とすれば、私の体験から言って平均的「東高」生は

まず田舎なりのお坊ちゃま・お嬢さまであり

既得権は絶対に離さない 、

正義より、権威に縋る傾向が近い、意固地、偏狭、独善、あるいは無関心…

小心(これが大人になると保守になる)、社会正義に対する意識は比較的高いが、いざとなると日和見となる

つまり世渡りが上手

彼らのモットーは「人に迷惑をかけなければそれでよい。他人はどうでもよい。」

……そんな人間は社会的立場の公務員などになるべきではない

現在(2003年)の東伯中では、学年150人のうち15%くらいも東高にいく(決して東伯中のレベルアップではない)

この東高への進学率の高さを公言している市内某中学校PTA会長(or連合PTA会長)、校長(or教育長)もいる

「東高」は今も昔も校舎は濃い目の灰色である

現在当時の同級生たちが地元教育界でも「活躍している」(当時、大卒の就職難で多くが銀行マンか、教員)

C教育事務所長、K中学校長、教頭、M中学校長、教頭などなど…。

また、学級経営できない、自己満足の授業法、5時で退勤、などの東高出身者(だけではないが)も多くいるし、

そういう親の背を見て育った子が当然のごとくまた東高に入るのである

もし彼ら(私の同級生など)が、高校時代の自分たちの態度などを、反省もなくきれいごとを言うのなら許されない

「軟弱」な西高生だけど…

概して、西高生は「優しい」、言い換えれば軟弱ともいえる

主観的で大雑把だが、西高生の多くは、「世渡りが」下手である

(世渡りの一番上手な者が政治「屋」である)

「お人好し」ではないが、「そこまでやるか!」のようなことはしない

まあ、他人を蹴落としてまで自分の立場を守る輩よりはましだろう

だが、権力・権威指向の者に対しては弱い、と言うか赦してしまう

結果的に彼らと同等視されてしまう

西高生に欠けていたもの

西高生に望まれるのは「筋を通す力」、「ポリシーのあること」である

自分自身で考え、他人に左右されない、非常識な常識に捕われない、一貫性のある論理と行動

道理を通す力、自信、精神的な逞しさ(でも肉体も鍛えよ)、正義

理屈ではない、生き方である、それを3年間で身につけて欲しい

そうすれば「優しさ」故の「世渡り下手」が解消されるだろう

………

それが「生徒憲章」ではないだろうか

自由・自主・自律

正々堂々と、部活動もし受験勉強もする

生活では道理のある正しい生活

最近は「文武両道」の高校が少なくなってきたが、自由な雰囲気の学園生活の中で伸び伸びと青春を謳歌する

そんな数少ない県立高校が西高だと思う

生徒は「ピンからキリ」まで揃う(といっても「生徒憲章」が理解できる程度ではあるが)

IQは高いが、偏狭な雰囲気の「東高」が「性」に合わないヤツ

「東高」に入りたかったけど無理と言われたヤツ(だからといって決して「西高」で1番になれない現実を知る!)

西高に部活動をしたいためやっとこさ入ったヤツ

女生徒が多いから入ったナンパモノ

みんな「生徒憲章」に誓約します

教職員も「生徒憲章」の研修を受けます

たとえばこんなことも…

以前、西高の教頭であった人に、「今度は私の男の子が入学するのでヨロシク(…進路指導を)」といったとき

彼は「やめとけ、やっぱり東高じゃないと駄目だ」と言ってくれた

そして、彼は「東高」の校長となった

彼も私の高校生時代に「東高」の先生で、いかにも生徒に理解ありそうに振舞っていた人であった

さすがに「東高」の校長である(笑)

また、西高の教員の中にも「俺の子だったら西高には入れん(東高だ)」という者もいる

子どもが選んだ西高

わが家の子どもたちには、西高への強要は一切していない

しかしながら、中学生時分に高校訪問(オープンキャンパスのようなもの)をして

自分で西高を選んでいる…

通学距離は決して近くない

自宅(琴浦町八橋)からJR八橋駅まで徒歩10分

JR八橋駅からJR倉吉駅まで20分

JR倉吉駅から倉吉西高まで自転車で30分

計、ほぼ1時間。

鳥取中央育英高ならJRが約10分で徒歩2,3分。「東高」ならJR倉吉駅から自転車で15分くらい。

それでも倉吉西高に行く(♪なんでだろ〜)。

もっとも、クルマなら自宅から20分なんですが…

まだ「生徒憲章」の精神を活かしきっていない

だが、今ひとつ「生徒憲章」の精神が活かされていない感がある

部活動ももっと覇権をとってもよい

進学(進学だけがすべてではないけれど)も、まだ実績が十分ではない

「生徒憲章」の精神が花開くのはまだこれからだと思う

男女共同参画社会の推進も視野に入れて

また、入学者のうち女子の割合が多いのだが、依然として本人及び保護者が女子生徒は、短大・専門学校でよいとするものが多い。

女子就業率全国2位の鳥取県の場合、女性労働力は重要である。しかしながら、今までは農業等単純労働で占められていた。

また、出産・結婚でせっかく資格を持っていながら中途で使ってない女性も多い。これらの状態を脱しなければ鳥取県の経済は成り立っていかなくなる。鳥取県の経済は女性の労働力にある意味では依存している。

したがって、これからは西高の女子生徒だって、知的労働能力を得るためにもっと進学を目指してよい。

否、目指さなければならない。そして「生徒憲章」のもとに、である。

定員減で最後まで残る学校になれるか

私は誰もが高校に入るアメリカ風の現状ならば、「高校全入制」に賛成である

(淀江産業技術高の廃校反対運動の中で「高校全入制」が出てくることを期待したが、なかった。郡部に高校が必要だったら、「伝統」のある市部の高校との競合、あるいは序列化を避けるためには「小学区制」と「全入制」がなければ無理。つまりは現在の公立中学校と同等の制度でなければ意味がない)

しかし、本来の学問の入口としての高校であるならば、卒業は難しくてよいし、数も少なくてよいと思う

いずれにしろ鳥取県内の場合、人口減、少子化が進む

この鳥取県中部地区で最後まで残るのは「東高」と西高と私立の北高だけだと思う

すなわち、高等学校(旧制中学)制度が始まった時点に帰ると思われる

もちろん、「東高」にもいい奴はいる(「世渡りの下手」さを頭脳でカヴァーしている)し、

他の高校だって、そう。逆に西高にもズルイ奴はいる

それは忘れてない…。

つまり

倉吉西高の生徒は「世渡りの下手」な子が多い

それが、学園の雰囲気を伸び伸びとさせている

しかしそれだけでは「世渡りの上手」な者をのさばらせることになる

傍観者であれば、自分よりさらに弱い者が増える

より弱者からは「世渡り上手」の「加担者」と見なされる

自分の立場をはっきりしておかないとダメ

「生徒憲章」をどこかの町の「町民憲章」のように飾っておいてはダメ

「生徒憲章」をバイブルのようにして

たとえ独りであっても自分が正しいと思ったことはキチンと言えるような人物を輩出して欲しい

その能力と人格が西高生なら可能性が大きい、と思うのです

90周年記念式典懇親会で感じたこと

懇親会には、元校長としての松本重徳、高多彬臣、永江重昭、國本洸紀、岸田美明の各氏が出席されていました。その中で生徒憲章に携わった松本重徳・高多彬臣両氏の西高に対する思い入れの深さに、改めて感心しました。その両氏との話の中で私がふと思ったのは、両氏の理想としての西高は、実は、古きよき時代の、自由な「東高」のありようではないだろうか、ということです。現在の「東高」は至上命令である東大入学生の輩出のために、あまりにも管理的、矮小化された進学校に陥ってしまっています。昔(と言っても精々私などのいた頃まで)の自由な校風、あるいはバンカラな校風、一方で前田寛治などの芸術家を輩出し、他方で福本和夫などの左翼理論家を出し、あるいは宮澤賢治などと活動した河本緑石を出した校風です。最近では中原中也賞を受けた人もあるらしいが……。いずれにしても、自由な校風を守りながらの進学校を目指し、その指針としての「生徒憲章」があったのかな、と感じました。

2003.6.2,265加筆 2003.7.29 8.14 8.16 10.8  2004.4.1 5.22 8.21 11.12 加筆

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