倚子の会 河本緑石 八橋(やばせ) PTAについて 押本電波(休) なぜ倉吉西高なのか 

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最終更新日2012/05/18

赤碕高校同盟休校(『赤碕町誌』1974.11刊から)

 昭和44(1969)年10月20日木代県教育委員会事務局次長兼教職員課長が来町、町議会に対し、

「県教育委員会は昭和45(1970)年度より県下の高等学校教育の適正化及多様化等高度な教育を目標のもとに、4学級以下の高等学校を対象に来年度よりの募集を停止し3年後には廃校する。」という基本方針を決定、この教育委員会の方針を推進するために、赤碕高校の来年度よりの募集停止実施にともなう地元の説得を含んだ意味の説明を行った。

 これに対して町議会は、「赤碕高校新設当時の実情を無視して、今更廃校につながる募集停止を考えるとは何事だ。」と言う険悪な状況で、木代教育次長は何等得るところなく帰県した。

 その後、地元出身の林原県議会議員を通じて県教育委員会に対し、赤碕高校の募集停止の方針を撤回させるべく交渉がなされ、県教育委員会も諒承したかに見えた矢先、1月10日の夜8時ごろ林原県会議員より森町長に対し鳥取からの電話で、「県教育委員会はあくまで基本方針を強行する事に決定し、12日公示する方針である。」との連絡があった。

 当夜は本町の議会議員選挙の開票が行なわれていたので、翌11日に林原県会議員・森町長・町会議員・教育委員・中島高校長・明穂PTA会長等を中心に、緊急対策協議会を開催して満場一致で断乎反対を決議し、出席者全員が12日に上県し県教育委員会に対して「本日公示される募集停止を地元との話し合いのつくまで保留されたい。」と併せて基本方針の撤回を要請した。

 木島教育長・木代次長・小田教育委員長代理と長時間にわたり対談し、時には暴言も飛び一時険悪な事態も予想されたが、話し合いは一歩も前進せず、平行線をたどり物別れという結末であった。

 その後も引き続き石破知事・藤井県会議長・各党の県会議員・県教育委員等に対し政治的に活動を開始し陳情を行なう一方、町に林原県議・森町長・三好元町長(赤碕高校建設当時の町長)・井木議会議長・町議会議員全員・町教育委員・小中高各学校長・町内各種団体長による赤碕高校永久存置対策協議会を結成し、町議会に於ても赤碕高校永久産地特別委員会を設置して川上議員が委員長に就任し、町の総力を結集して存置に邁進する態勢をととのえた。

 

 この時点に於て赤碕高校の生徒間に不穏な気配が感じられるようになり、ついに1月15日生徒総会を開催し、赤碕高校の募集停止の問題を中心に論議された。

その結果

「町対策協議会及PTA等に依存していては不安である。我々も母校となる赤碕高等学校を守るべきである。今後の情勢によっては実行行動を取るべきだ。」と決議し、緊迫した空気が流れ始めた。

 町、対策協議会としても林原県議を中心に連日にわたり石破知事・藤井県会議長・県会議員・教育委員等に、政治的に請願・陳情・話し合いが進められていたが前進的な確答は得られず、生徒会より交渉の経過説明が要求されたがPTAは答弁に困りただ「現段階に於ては政治的に話し合いをしているから、しばらく待つように」となだめるほか、方策が見出せなかった。

 しかし生徒会には政治的に裏面交渉がなされているという事がどうしても理解し得ないかのようで、20日に至り再度生徒総会を開き翌21日に県教育委員会に対しデモを敢行する事を決議し、バスの手配までした。

 この情報を知った町協議会・PTAは「生徒にかかる実力行使をさせてはならない」と急拠生徒会代表と会い、中止方を説得し既に手配したバスは町民及PTAが生徒に代ってこれを利用し、県に乗込んで談合すると言う事で生徒は一応思い止まった。

 急ぎPTAを非常召集し21日早朝町民の積極的参加を得てバス11台に乗り込み、この様な非常手段で県教育委員会に対し基本方針の撤回を要求した。これに対し県教育委員会は難色を示し話し合いは難航したが、藤井県会議長の打ち出した仲裁案「一年延期」の案をのみ一応引き上げた。

 帰町後直ちに生徒会に一年延期の説明をし爾後の問題については、町協議会・PTAに一任し生徒の自重を説得した。しかし生徒会は「一年延期では承服できない。あくまでも県教育委員会の基本方針を撤回させるべきだ。」といきりたち、翌22日県教育委員会に対するデモを行う事に決議しバスの手配をした。

 当日町協議会・PTAは早朝より学校に集合し、生徒の実力行使はどのような事をしても阻止すべきだとの決意のもとに諸先生の応援を得て、一人一人の生徒に親の立場、学校の立場から仲裁案を黙認した行きがかり上、説得に必死の努力をした。生徒のうちには大声でわめく者もあり女生徒で泣く者もあって、早朝の学園は混乱状態に陥り騒然たるものであった。

 しかしこの努力もむなしく生徒は次々にバスに乗り込んだ。一同も手の施しようがなく断念し、PTAは、「生徒だけに行動させては最悪の事態を起こすおそれが有る」と判断して教師と共に乗り込み、この行為はPTAの明穂会長の責任に於ての行動であるとのことに合意された。

   

 鳥取駅前広場に到着後、明穂PTA会長が先頭に立ち、永久存置・廃校反対と書いたプラカードを掲げ、駅前より県庁までの間を二列で整然とデモ行進し、赤碕高校廃校反対の協力を求め腹の底からにじみ出るような生徒の悲壮な叫び声を上げながら市民に訴えた。

 県庁広場に到着すると直ちに生徒より木島教育長との面談を要請したが、教育長は生徒と面談する事に於て生徒のデモを認めた事になるとして面談を断り、代って木代次長が顔を出したが生徒は代理では承服しない。あくまでも木島教育長との話し合いでなければと強硬な態度であり、止むなく木島教育長も生徒と面談する事に応じ、県庁の講堂をその会場とした。

 木島教育長は高校再編成に対する教育委員会の基本方針を説明したが、生徒は我々を無視した一方的な考え方であると教育長の説を真っ向から反撥し、講堂内も一時は混乱状態に陥った。教育長はこれ以上話すことは無いと退場してしまった。生徒一同の興奮は容易に治まりそうもなく、PTA・教師もこれの収拾に困惑したが漸くにして生徒をなだめすかして再びバスに乗り込ませ帰校した。

 町は2月25日に赤碕高校永久存置の町民総決起大会を赤碕高校体育館で開催し、町民600名参加のもとに「赤碕高校永久存置に町民総力を挙げて戦う」ことを決議し、更に強固なる団結を約した。

 その後も高度な政治的交渉に入ったが平行線を続け一向に好転しないまま日時は経過し、生徒も不安と焦慮で本来の勉強もまじめにできず、成り行きを重視しつつ新学年を迎えた。 

 県教育委員会は4月28日に県教育行政連絡協議会開催した。その席で木島教育長は「基本方針は依然として変えない」旨を表明し、従って赤碕高校の46年の募集停止は決定した事になった。

 この発言を知った生徒会は「町協議会・PTAは我々をだました。大人は信用できない」といきりたち、5月14日生徒総会を開催し母校を廃校にするなとの信念で「廃校絶対反対、県教委案白紙撤回」を決議し、県教育委員会に対し一週間以内に回答せよと電話を送り再検討を迫った。

 これに対し県教育委員会は教職員課より2名を学校に派遣し事情を説明したが、方針を変更しない限り生徒が了承する筈はない。逆に生徒たちに更に態度を硬化させるばかりで、20日からの中間試験をボイコットして、21日の県教育委員会からの回答を待った。南の風をうけて初夏のように暑いグランドも校舎の窓に見える生徒の顔も思い空気に包まれて沈みきっていた。

 5月21日、この日も空はよく晴れていた。始業時定刻に生徒総会が開会され、この席上読まれた県教育委員会より校長あての文書は「赤碕高校は46年度以降の生徒の募集を停止する」とこれまでの方針を繰り返したものであって、生徒総会は無責任な県教育委員会の回答として「無期限の同盟休校」を決議して直ちに休校に入った。テレビ・ラジオはニュースを流し、翌日の新聞は全国版に報道した。

 生徒が同盟休校という実力行使に踏み切った行為については生徒の本分を逸脱した感もあり、社会的にも大きな波紋を巻き起した。しかし生徒の心情を思うとき本分論だけで否定するには忍びないものもあり、学校の正常化にと教師・PTA共に説得につとめたが、生徒会執行部は「明穂会長との話し合いには応ずるも他の者との対談には一切応じない」と更に強固な線を打出した。止むなく会長のみ執行部と数回にわたって対談し出校を力説したが、県教育委員会より白紙撤回の回答が得られない限り同盟休校は解除しないとの決意を堅持しているので、休校は長期化の様相があらわれた。

 再度のPTA役員会にも秘策妙案も出ず、家庭での生徒との話し合いによって父兄の立場から一日も早く同盟休校を中止させるべく、各地区毎の夜間父兄会を計画し役員の並々ならぬ努力によって赤碕町5ヶ所を初め東伯町3ヶ所・倉吉市・大栄町各2ヶ所・東郷・泊・羽合・北条各1ヶ所で父兄会を開催し、趣旨の徹底につとめ一人一人の説得を固く申し合わせた。

 6月も上旬をすぎても好転の兆しを見せず、PTAの苛立ちは深刻を極めた。長期化した事態の収拾策に万策尽きた明穂会長は6月15日付けで生徒会長宛に誓約書を提示した。誓約書の内容要約は、

「県立赤碕高校の永久存置については、生徒諸君と共にPTAとしては事態の成り行きを憂慮しつつ今日まで全力を尽くして来た。諸君の22日よりの同盟休校に対しても、PTAとしては諸君がここまで決意した心情と決心を親の立場から十分な理解と判断の上に立ち、責任の一端を反省しつつ事態の推移を見守って来た。

 我々は諸君とはあくまでも親子の間柄であり、その点から諸君が学生としての道を誤らないように、また我々が諸君を誤らせないようにとの思慮から日夜苦しんで来た。諸君が同盟休校に入ってより本日まで既に25日を経過しており、これ以上継続する事は県当局及一般県民等各方面に悪影響を及ぼすおそれが有ると共に、生徒諸君の就職・進学・単位の取得等についても重大な事態の起る事が予測される(7項目を提示)。

 PTAは諸君に代って積極的な行動をとる事を決議した。生徒諸君は前期事項を十二分に討議され、自主的な情勢判断により正常な学校生活にかえられる事を切望する。

 我々PTAは本校の存置に対する問題が、7月20日(注・1学期末)までの間に未決定および情勢が悪化した場合には、生徒会と緊密な連絡をとりPTAは総力を挙げて先導者となり、再度の強硬な抗議行動を惜しまないことを諸君に誓い、これを誓約するものである。」

というものであった。

 この誓約書が当日の生徒総会で種々論議され、その結果約1ヶ月にわたり紛糾を続けた同盟休校も6月18日に解除され、翌日より生徒全員登校し正常な授業が開始された。

 町の永久存置協議会も林原県会議員を中心に総力をあげて東奔西走の結果、12月の最終県議会で再度論議、討議された。地元町民の熱意とPTA・同窓会・生徒会等の真情の訴えが理解され、赤碕高等学校も従来通り生徒募集をし存続される事に決り、一年余りにわたる赤碕高校廃校問題もここに一応終止符を打つことになった。

 

 

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