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最終更新日2012年05月18日

河本緑石・自由律俳句の周辺

(倉吉市社公民館講演レジュメ)

         押 本 昌 幸

出会い……緑石の亡くなった(1933.7.18.1030)八橋       

  • ペガサス主催「しのぶ会」八橋・中井旅館(1952.7.20

  • 倉吉おや子劇場第3回自主公演(1982)『―緑石と賢治没後50年―星めぐり』(波田野頌二郎脚本)

  • 通説の「緑石観」の変更(「賢治の傘」からの独立)

    井泉水『大山』の「序」・村野四郎『夢の破片』評

    → 「ある手紙」・兵役中の「詩集」・交流雑誌・『大空放哉傳』…

    『新編倉吉市史第3巻』「第7章・文化、p583p591」(1993)に解説(たぶ    

    ん今村実氏執筆)[資料T]

    前回の波田野頌二郎氏の3つの疑問

    @緑石は何故定型ではなく自由律俳句を選んだか

    A前田寛治と緑石とは生年は1年違いなのに何故卒業年次が2年違いなのか

    B何故に緑石の生き方とは異なる「志願兵」となったか

    『大空放哉傳』の価値

    a放哉研究書

    b.『放哉傳』に投影された緑石像

    俳号「緑石」について(※A)[資料U・V]

    謹一郎に指導を受けてはじめた定型の頃は「緑鳥」であった…「加藤朝鳥」(資料W)

    『日本文學』(大日本俳諧講習会)に投稿の頃は「緑石」か…「西洋紙事件」(1916.12夏目漱石の国葬を!)

    自由律俳句作品

    (cf.「随句」…自由律の鑑賞の仕方の例)(資料X)

    a 俳句の出発

       薔薇色の空に一つの星が尊くひめありぬ1914

    草を分くれば光ありしみじみ夕べ1915

    b.なぜ自由律か(※@)

                 見たまま・きいたまま・感じたまま

    正岡子規1897「ホトトギス」──河東碧梧桐・荻原井泉水(自然主義) ─┬─    表現主義

      ├─人生主義

                                      ├─社会主義

      自由律→口語化

          1903 高浜虚子「現今の俳句界」(ホトトギス)で河東碧梧桐の存在の大きさを披瀝

          190611 碧梧桐日本全国俳行脚「俳三昧」

    投げられし石寒き水面をぺんぺんと飛べり1914

       疲れし身に砂丘円し油のやうな海1914

       そと灯出せば闇を嘗めをる蛞蝓よ1915

       夕日染みて働く手よ夕陽ちらばる黒土に1915

    c.賢治との出会い『アザリア』

       堤行く女に雲影静か動く昼1916

       光れりその影の円き畳かな1916

       死束ねもつ男ふいと風の中1917

       土に喰い入る鍬にて蛙死にけり1917

       まどろみ深き病人に薬買うて来し1918

       とろろとろろ海鳴る昼のさかな売り1920

    d.「ある手紙」「砂丘社」…前田寛治

       青み渡れる海を見て飯がつめたい1921

       鍬をそろへて山畑の春日うちかえす1921

       畑の人等にまだ暮れぬ海のいさり火1921

    入営中の詩集『なやめる樹』1921「1年志願兵」(1918)(※B資料Y)

    「私も一緒に悩んでゐる」

    村々や町々から徴集せられた青年達

    君等の若い血は躍らない

    君等の若い心は伸び伸びとしない

    それどころか君等は怖れわなないてゐる

    何がかくまで君等を怖れさすのだ

    君等はふるへてゐる

    君等は孤独で寂しい

    君等はなぐさめがない

    君等の自由の最後の時間までがうばはれた

    君等の意志はめちやめちやにくだかれた

    君等は小指ほどの反抗も与へられない

    君等は時に正義さへうばはれる

    君等はなやみどうしだ

    君等は寂しさに泣いてゐる

    君等は苦しみにうめいてゐる

    おゝ、凡ての近親者凡ての暖かきものに別れて来た君達

    私は君達を見るに堪へない

        また、

     或る時は大杉堺の獄中記しみじみ読みて見たりき1921

    e.ヒューマニズム

       一ちやうの鍬を命とし土に生きる1922

       電柱暗く続き高原の雨しとしと降る1922

       死を見守る蠅とその蠅の影1922

       酒ぞんぶんに飲み泣いてゐる百姓1922

       蛇を食べよう山人らそこに火を作る1923

    f.表現主義ふう

      『層雲』史上での位置づけ

       山頭火「現在の私は、宗教的には仏教の空観を把持し、芸術的には表現主義に立脚してゐることを書き添へておかなければならない」(1933其中日記第2巻)

       光すらすら人間に追はるる蛇1923

       冬の夕焼けさびしい指が生える1925

       私の胸の黒い夜沼の蛇だ1925

       ほうと百姓雀追ふた1926

       魂に眼があるきよとんとしてゐる1926

       荒海の屋根屋根1926

       暗い空の雪風に眼がゐる1927   

    死んで俺が水の中にすんでゐる夢だつた1927

       狂つた時計ばかり背負はされてゐる1927

    g.周辺の死→存在を見つめいる句(ゐる句)→前田寛治の「新写実主義」=質感・量感・実在感

      宮澤とし1926.3・尾崎放哉19264・前田寛治1930.4・河本順子1931.6.世界恐慌1929.10・満州事変1931.9  

       cf.宮澤賢治も、とし・保阪との別れ以後変化

    風がおとすもの拾ふてゐる1929

       風はれるとする谷川へ散る葉1929

       つぷつぷ空乳すつて生まれてゐる1930

       星、みんな消えてしまつた頂上に座る1931

       竹の枯葉の散る子の墓に屋根する1932

       麥がのびる風の白猫1932

       椿落ちてゐる雀下りてゐるふんすゐ1932

    蛍一つ二つゐる闇へ子を失うてゐる1932

    なんとしても逝かせたことが、夫婦でゐる1932

    山陰の風土(古代出雲・伯耆)が生んだ誠実な俳人

         文学上の改革期には県人が(香川景樹・阪本四方太・田村虎蔵・放哉・村田薫吉・稲村謙一・杉原一司など)・今村実「ある諦念」・山下清三「偉大な憂鬱者」

     

     

     

     

     

     

     

    緑石・朝鳥の写真は『新編・倉吉市史』「第3巻(現代)文芸」(1993)から転載しました

    よろしければ、私のH.P.も参考になさってください。

        http://www.apionet.or.jp/~stfri13b/ryokuseki.htm  です。

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