倚子の会 河本緑石 八橋(やばせ) PTAについて 押本電波(休) なぜ倉吉西高なのか 

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最終更新日2013/05/30

風景のかなたを凝視する鋭い眼

ある諦念を持つ

偉大な憂鬱者のひとり

自由律俳人

河本緑石

あ ら う み の や ね や ね

facebookno頁もどうぞ 河本緑石研究会  河本緑石記念館

 
 

NEWS

2013/04/27 「河本緑石記念館」の頁を開設
2011/01/12 河本緑石研究会」の頁を開設
2011/01/03 講演会レジュメを掲載
2006/01/21 シンポジウム「ふるさとの大地に生きた詩人、河本緑石」(文化政策課主催)

 

自由律俳人として、荻原井泉水『層雲』輩下の種田山頭火、尾崎放哉はその放浪生活とあいまって有名である。

独断との非難を恐れずに言ってみれば「生活破綻者」としての背景が、その評価を作品以上に高めている。

同じ鳥取県人の自由律俳人として、生活破綻者の極み尾崎放哉ほどに河本緑石は評価されていない。

その放哉の伝記『大空放哉傳』(荻原井泉水序)を初めて世に問うたにもかかわらず、である。

はじめに、今までの彼の文化芸術的交流について言えば、

その盛岡高等農林学校時代に宮沢賢治たちと同人誌『アザリア』を発行し活動したこと

美術の中井金三、前田寛治などとともに「砂丘社」として芸術文化運動を展開したこと

荻原井泉水の『層雲』を中心に尾崎放哉・種田山頭火らと自由律俳句で活躍したこと

である。

ここでは、先ず緑石の足跡を年譜にし、その流れの中での彼の位置を確認することにした。

なお、黒色太字の俳句は緑石のその時々の作品である

「風景のかなたを凝視する鋭い眼」「ある諦念」…今村実氏(「日本海新聞」1997年)

この今村氏の評は、緑石の人物像を的確に表現したものと思われる。「…風景を絵画的に描きながらも、その風景のかなたを凝視している緑石の鋭い眼がその風景の中に映っている。  <ある諦念>を抱きながら、学校の教師として精力的に教育活動に尽瘁し、家庭では良き父であった緑石は、周囲の人間に、<あたたかく、あかるく、ぼっくりとして、むつとしたものを持つている><実にいいひとだ>という印象を与えながらも、遠い遠い世界を凝視し続けていた人であったかと思われるのである。」

私はこのことが緑石をして『大空放哉伝』を書かせたものと思っている。緑石に見えるある意味での「個の孤独」は晩年の放哉と想いが通ずるところがあると思われる(放哉にても、別れた澤芳衛への想いを常に持ちながら、妻の馨へは実に誠実に過ごしている)。

     河本緑石の贈り物を探して見ませんか(2006.1.13「日本海新聞」の元原稿)

   「贈与する人」

 「魂は商品として、売り買いすることができません。情報として、蓄積したり、伝達することもできません。魂は贈与されるものです。自然から人へ、人から人へ、魂は見返りを求めることなく、贈り与えられ、それを受け取った人は、自分が受け取ったものにもまさるすばらしい贈り物を、他の人々に贈り与えようとするのです。」(中沢新一「贈与する人」・新潮文庫版宮沢賢治『ポラーノの広場』から)

 これは宮沢賢治の解説で語られたことではありますが、今回倉吉未来中心で行われる鳥取県主催「とっとりの文学探訪……ふるさとの大地に生きた詩人『河本緑石』シンポジウム」の主人公河本緑石についても当てはまる言葉だろうと思います。

 とは言いながら、いま、河本緑石(りょくせき)を知る人は、生誕地の鳥取県中部でも少ないのではないかと思われます。

   宮沢賢治と緑石と

 1916(大正5)年、倉吉中学を卒業した緑石は、盛岡高等農林学校に入学します。そこで宮沢賢治、保坂嘉内らと同人誌『アザリア』を創刊します。のち賢治は亡くなる前に『銀河鉄道の夜』(未完成)を書きます。そのなかで、カンパネルラが、溺れたザネリを救い自らは没してしまうというシーンがあります。これは、倉吉農学校在職中の緑石が、八橋海水浴場で溺れた同僚を助け自らは亡くなる、という出来事と不思議に暗合するのです。

   種田山頭火と尾崎放哉と緑石と

 緑石のこの事故は1923(昭和8)年の7月ですが、「分け入っても分け入っても青い山」などで有名な種田山頭火が、すぐに追悼句と追悼文をその日記にしたためています。

実はこの事故さえなければ、緑石は、山頭火と師である荻原井泉水と大山にいっしょに登ることになっていたのでした。

 井泉水・山頭火・緑石に共通なもう一人の俳句作家に、鳥取市出身で、「春の山うしろから煙が出だした」などの句を残し、独り小豆島で亡くなった尾崎放哉がいます。緑石は、放哉が小豆島にたつ前に京都で一度出会ったきりですが、放哉の俳句に惚れ込んで、放哉の死後数年かけて『大空放哉伝』の原稿を完成させます。これは、放哉研究者が先ず目を通さなければならない本(絶版)になっています。また、流浪の放哉、生き別れの妻、馨の所在を、鳥取市の実家に知らせたのも緑石でした。

 このように緑石は、現在人々が一番よく知っている俳句作家の山頭火・放哉とともに自由律俳句を究め、山頭火・放哉を継ぐ世代のひとりとして期待されていたのでした。ただ緑石は流浪の人ではなく、市井の人なのでした。

   前田寛治と砂丘社と緑石と 

 緑石は市井の人とはいえただのひとではありませんでした。1920(大正9)年、義兄にあたる美術教師の中井金三(藤田嗣冶と同期)のもとに、日本洋画壇に一時代を画した前田寛治らとともに「砂丘社」を創立し、同人誌の発行、絵画展、文化講演会、舞踊・音楽公演等の企画をし、地方文化の牽引車として活躍したとされます。もちろんこの中で、寛治のパリ行きの協力もあったであろうし、同人相互のジャンルを問わない交流があったと思われます。緑石自身も洋画を表わしています。

   教育者としての緑石

 緑石が市井の人であることのひとつは、倉吉農学校の教師であったことです。農業製造・数学・武道などを教え、作詞作曲、オルガン演奏をし、一方で百メートル走は11秒台であったというし、東郷湖横断の水泳記録を持っていたというし、それらの能力を全身全霊で生徒たちのために費やしたであろうことは、緑石が生徒たちから「ホトケ」さんと呼ばれていたことからもうかがえるでしょう。

   緑石の贈り物 

 さて、このようにみてくると、緑石が故郷にもたらしたものは多種多様であります。賢治・井泉水・山頭火・放哉・金三・寛治等々から緑石が贈与されたもの 。そしてそれにまさる緑石が故郷に贈与したもの。今回のシンポジウムではそれらをすこしでも明らかにしたい、との想いで催します。

 基調講演には、宮沢賢治研究家で島根大学名誉教授の木村東吉さんと、保坂嘉内の次男で医師であり賢治研究家の保坂庸夫(つねお)さんをお願いしています。そのあと、県図書館協会会長の高多彬臣(よしとみ)さんをコーディネーターに、地元倉吉文化団体協議会副会長の波多野頌二郎(しょうじろう)さん、自由律歌人押本昌幸に、基調講演のお二人を加えパネルディスカッションを試みます。       荒海の屋根屋根   緑石

***

『銀河鉄道の夜』の宮沢賢治、 漂泊の俳人・種田山頭火、孤独の俳人・尾崎放哉、「砂丘社」の中井金三・前田寛治たち、

 彼らの交わるところに河本緑石がいた。緑石の故郷への贈り物を探してみたい。

 

講演会レジュメ(参考資料)

日付

タイトル

主催ほか

2007/3/31 河本緑石・自由律俳句の周辺 県文連・倉文協文化サロン
2007/9/5 河本緑石・自由律俳句の周辺 倉吉市社公民館文化教養講座
2008/9/20 河本緑石論 へそのまつりアロハホール
2009/8/28 河本緑石の「表現主義」 県文連・ふらここ展オープニング講演
     

* 

   河本緑石(かわもと・りょくせき=本人はろくせきと称した)、本名義行。

1897(明治30)年、3月21日、鳥取県東伯郡社村(倉吉市)福光に定     吉(長寿105歳まで存命)・政野の次男として生まれる。

1694(元禄7)…松尾芭蕉死す

1783(天明3)…与謝野蕪村死す

1827(文政10)…小林一茶死す

1828(文政11)…香川景樹(1768-1843:鳥取藩出身)『桂園一枝』

1886(明治19)…加藤朝鳥(久米郡社村不入岡)に生まれる。

1891(明治24)…8月、小泉八雲、八橋「中井旅館」に泊まり、海水浴をする

1897(明治30)…『ホトトギス』(同人の阪本四方太1873-1917は鳥取県岩美町出身…放哉は  中学の後輩)発刊

1900(明治33)…田村虎蔵(1873-1943:岩美町出身)・納所弁次郎『幼年唱歌』(言文一致唱歌

1901(明治34)…与謝野晶子『みだれ髪』

1903(明治36)…高浜虚子「現今の俳句界」(ホトトギス)で河東碧梧桐の存在の大きさを披瀝

1905(明治38)…松瀬青々『妻木新年及春之部』(個人句集の誕生)

1906(明治39)…青山霞村『池塘集』(和歌史上初の口語歌集)

1906(明治39)…河東碧梧桐<思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇>(新傾向俳句の成功例)

        日本全国俳行脚(8/6〜3年半)…「俳三昧」

1908(明治41)…大須賀乙字「俳句界の新傾向」

少年時 代………義兄の河本謹一郎(金沢医専に進み、その後、横浜市鶴見区で開業。

           相当の美男子で、女学生に人気があったという…義和氏談)の影響で俳句を始め 緑鳥と号した。       

1908(明治41)…若山牧水『海の声』

1909(明治42)…宮澤賢治、短歌製作始める〜1921年頃まで

1910(明治43)…石川啄木『一握の砂』

1910(明治43)…大逆事件(幸徳秋水事件)

1911(明治44)…4月、井泉水・碧梧桐『層雲』創刊

1911(明治44)…倉吉中学に入学。中井金三(姉・しょうの婿、画家前田寛治を育てる)が赴任。

1912(明治45)…喜谷六花『寒烟』(碧梧桐門下新傾向)

1912(明治45)…山陰本線開通(餘部鉄橋開通)

1913(大正2)…斎藤茂吉『赤光』

1913(大正2)…若山牧水『みなかみ』(口語・非定型歌集)

1913(大正2)…高浜虚子「旧守派」として俳壇復帰

1913(大正2)…種田山頭火(1882-1940)『層雲』に投稿

1914(大正3)…第1次世界大戦

1914(大正3)…俳句雑誌『日本文学』(大日本俳諧講習会発行・内藤鳴雪、沼波瓊音の        選)に投稿か(木村東吉氏の説)。

1914(大正3)…荻原井泉水に師事、『層雲』によって自由律俳句を作り始める。(県内自由律俳句の先駆け)

薔薇色の空に一つの星が尊くひめありぬ

1914(大正3)…層雲社『層雲第一句集』(自由律俳句として出発)…季題廃止宣言

井泉水:「一つの鍵」…リズム「語彙がそのまま物象となってまざまざと隆起しているような自由な印象の律 が目標。「自然の印象と自己の表現とから出発」するのが俳句の原点。

1915(大正4)…3月、碧梧桐『海紅』を創刊 。のち1922(大正11)に中塚一碧楼に譲渡 cf.井泉水、無季・自由・自然(非「配合」)

草をわくれば光ありしみじみ夕べ

1915(大正4)…安齋櫻カイ子『閭門の草』(碧梧桐門下新傾向)

1915(大正4)…緑石、前田寛治と会う。

1916(大正5)…芹田鳳車『雲の音』(井泉水門下初の自由律俳句集)

1916(大正5)…鳥取県立倉吉中学校卒業。

1916年、盛岡高等農林学校農学科第一部(当時全国唯一の高等農林学校)に入学。…農家の後継ぎということで、農業系ならと親から進学を許された。

あさひあさひいましこの雪にもえあがる

1916(大正5)…尾崎放哉1885-1926:鳥取市出身…井泉水の一級下)、『層雲』入会

1917(大正6)…村上鬼城『鬼城句集』(ホトトギス…鳥取藩江戸屋敷生まれ  

                                                                                     

1917(大正6)…※9月19日、父の姻戚から石賀加寿代(蒜山出身)を妻に迎える。

空のうるおい地のうるおい鍬をとる

     同年7月には同窓の宮沢賢治、保坂嘉内、鯉沼忍、潮田  

   豊、村上亀二、小菅健吉らとアザリヤ会を結成し、謄写刷 

   の『アザリヤ』を創刊。右下の写真は、保坂嘉内(後列左)

   宮澤賢治(後列右)小菅健吉(前列左)河本緑石(前列右)の「アザリア」のメンバー (河本家提供)。

※『緑石の生涯』に前田明範氏編集の「年譜」で9月19日となっているが、1月3日らしい。「緑石が盛岡高等農林学校1年生の冬休み、花嫁の加寿代は、岡山県の作州から、中国山地の犬挟峠を越えてカゴにゆられてやってきた。関金温泉でひと休みし、化粧をなおしてからこし入れした。緑石は、若い妻を倉吉に残して、盛岡高等農林学校に戻ったが、毎日のように手紙をよせ、家の者をあきれさせた。」(山下清三『文学の虹立つ道』「村尾草樹」)

…なお、この結婚の日付について前田明範氏より申入れがあり(2006.3.20)、戸籍を調べた結果の9月19日であるので間違いではないはずだ、とのことであった。緑石シンポジウム(2006.1.21)での保坂さんのお話で「(緑石から)嘉内への手紙によれば結婚したのは正月であった」と述べられたことと、併せて山下清三氏の叙述からすると9月19日は「入籍日」と解すべきと思われる

また、宮澤賢治の短歌(1917.7)に次のようなものがあった

宮古町 夜ぞらをふかみ わが友は 山をはるかに妻を恋ふらし

1919(大正8)…3月盛岡高等農林学校第1部卒業。

とろろとろろ海鳴る昼のさかな売り

          6月12日、長男一明誕生。8月「ある手紙」(新俳句論)執筆。12月、 歩兵第40連隊に1年志願兵として入隊。

1920(大正9)…4月※「砂丘社」創立に参加。中井金三ほか

1920(大正9)…中塚一碧楼『第二句集』(碧梧桐門下…個性を持つ自由律に)

1921(大正10)…口語自由律短歌誌『曠野』(稲村謙一…鳥取市…生活綴方運動)創刊。村田薫吉

1921(大正10)…除隊。 詩集『なやめる樹』(謄写版)…農民出身の兵の側に立った軍隊批   判の詩(井上由紀夫氏)。

この中に<在る時は大杉堺の獄中記しみじみ読みて見たりき>という短歌がある。

この前後から「口語」表現が増える

青み渡れる海を見て飯がつめたい

鍬をそろへて山畑の春日うちかえす

畑の人等にまだ暮れぬ海のいさり火

1921(大正10)…大須賀乙字『乙字句集』(碧門近代俳句改革派保守派・二句一章論)

1921(大正10)…宮澤賢治、稗貫農学校の教諭になる(〜26年まで)

1922(大正11)…綾木紅朝(淀江町出身)、河東碧梧桐の個人誌『碧』の編集に携わる

一ちやうの鍬を命とし土に生きる

電柱暗く続き高原の雨しとしと降る

死を見守る蠅とその蠅の影

1922(大正11)…宮沢賢治『歌稿B』。賢治の文学的出発点は短歌13(1909)〜25(1921)歳が短歌時代、多行書き…啄木・白秋とされる

そらに居て

みどりのほのほかなしむと

地球のひとのしるやしらずや(賢治…銀河鉄道短歌版)

1922(大正11)…1月1日次男輝雄誕生。3月、長野県上伊那郡伊北農商学校(現・長野県辰野高校)教諭。

下宿先は上島正夫宅 でUCCと関連あり?(義和氏談)

酒ぞんぶんに飲み泣いている百姓

蛇をたべよう山人らそこに火を作る(1923)

1923(大正12)…鳥取県実業補修学校教諭、鳥取県立農学校武道教師を経て、教諭兼舎監となる。

         表現主義風の油絵「自画像」… (→)

光すらすら人間に追わるる蛇

1923(大正12)…9月1日関東大震災(井泉水夫人桂子没)。

1923(大正12)…11月23日、放哉一燈園へ。

      緑石の連絡で、放哉の姉の並とその娘美枝子が東洋紡績四貫島工場の放哉の妻の馨を訪ね、放哉夫妻の長崎以後の動向が判明。

1924(大正13)…2月15日三男俊彦誕生。賢治から詩集『春と修羅』を贈られる。

1924(大正13)…渡邊順三『貧乏の歌』(プロレタリア短歌)

1925(大正14)…10月緑石・重村百堂・中原光石蕗『層雲』山陰支部結成のち「湖の会」

冬の夕焼けさびしい指が生える

私の胸の黒い夜沼の蛇だ

…表現派風と言われる(『層雲』誌上)

1925(大正14)…釈 迢空『海やまのあひだ』

1925(大正14)…風間直得・碧梧桐『三昧』創刊(ルビ付俳句)

1925(大正14)…4月、詩集『夢の破片』を荻原井泉水の序文を得て発行。

          初秋、京都・井泉水宅(橋畔亭)での俳談会で小豆島へ行く(8/12)直前の尾崎放哉と会う。

          10月16日長女葉子誕生。    

たゞ風ばかり吹く日の雑念(放哉)

1926(大正15)…3月31日、宮澤賢治の妹、としが亡くなる。

          「女学生時代の千世(ちせ…緑石の妹)さんが、(中略)賢治が可愛がって                  いた妹のトシの死の知らせをよこしたとき、緑石はひと言「賢治の妹が死んだそうだ」と告げるや。悲しみに打ちひしがれたいたとか。盛岡高等農林時代、学友だった賢治の、妹に対する思いやりを知っていたのだか、それは同時に緑石の千世への気持ちの現れではなかったか。女学校を出たあと、千世さんは両親や兄家族といっしょの生活(14人の大世帯だった)を続けていた。」(伊藤完吾氏:西田千世『句集 小さな灯』)

1926(大正15)…4月7日、尾崎放哉死亡。「大空放哉居士」。6月、井泉水編『放哉俳句集 大空』刊

ほうと百姓雀追うた     

魂に眼があるきよとんとしてゐる

荒海の屋根屋根 (右の写真は赤碕の河本家<親戚でもある>住宅=国重文)

       

「あらうみのやねやね」ともされる。

「配布資料6」(緑石シンポジウム当日資料の元原稿)から

この句は、秀句として「層雲」などでも取り上げられています。また、緑石ファンも当然取り上げる有名な句です。もちろん、私も大好きな句のひとつですし、平明でわかりやすい句であるともいえます。

「荒海の屋根屋根」、たった9音の「短律」といわれる句ですが、1926(大正15)年の冬、浦富海岸を写生旅行したときの作品だそうです。この前後の作品に「魂に眼があるきよとんとしてゐる」「暗い空の雪風に眼がゐる」など「表現派」風といわれる作品群もあります。

俳句的に区切れば、「荒海」「の」「屋根屋根」となるでしょうか。「荒海」は芭蕉なども使っているように「日本海」であり、「の」は場所や状態をあらわし、「屋根屋根」は波が複数あることを示しています。

したがって、日本海の荒海を知る人々にとって、この句は故郷の情景をよくあらわしている句だといえるでしょう。「屋根屋根」と反復が3回でなく2回で止めてあることは、波がたくさんあるのですが、しかし、連続して「点、点、点…と」あるのではなく、ポツ、ポツといくつかあるのだろうと思います。実際、大きな波は、横一列に波立つのではなく、一部が台形のように盛り上がり、さらにその中央部が白い波頭となって崩れていきます。

この波と屋根を想うとき、かつて農村によくあった藁葺き屋根が思い起こされます(最近は珍しいので琴浦町の河本家住宅あたりを想像していただきたい)。緑石の実家のある倉吉市福光は、少なくとも戦前まではたいていの農家が藁葺き屋根だったと聞きました。その藁葺き屋根の格好が白い波頭をもつ大きな波とそっくりになりませんでしょうか。また、緑石のいた頃の福光あたりは、遠くに丘を眺めることはできますが見渡す限り田園といった風景です。だとすれば、「この荒海の…」は懐かしい故郷の日本海、だけでなく屋根に見える大きな波の数々が、故郷の田園風景をも思い出させるのではないでしょうか。

「屋根屋根」の表現は、荻原井泉水が石碑にしたためたように「やねやね」のほうが荒海とのつながりが好いように思えます。が一方でかなだと「やねやねやね」と連続的な3回反復になりそうで、漢字のゴツゴツした「屋根屋根」だと嫌でも反復は2回どまりになります。どちらがよいかは意見の分かれるところでしょうが、意味的には「屋根屋根」表現的には「やねやね」というところでしょうか。

井泉水が農学校の緑石の碑にこの句を選んだのはさすがだといえるでしょう。

cf.宮澤賢治の短歌(1914.4)次のようなものがあった

雲ひくし いとこしやくなる町の屋根屋根 栗の花 すこしあかるきさみだれのころ

1927(昭和2)…7月22日四男静夫誕生。倉吉農学校校歌作詞。

暗い空の雪風に眼がゐる

狂つた時計ばかり背負はされてゐる

1927(昭和2)…放哉追悼句会(浅津)。井泉水とともに連日過ごす。

1927(昭和2)…芥川龍之介自殺

1928(昭和3)…大橋裸木『生活を彩る』(層雲・近代的都市生活詠…プロレタリア俳句が分岐)

1929(昭和4)…11月7日次女道子誕生。

風がおとすもの拾うてゐる

風はれるとする谷川へ散る葉

1929(昭和4)…栗林一石路『シャツと雑草』(層雲・プロレタリア俳句の登場)

1929(昭和4)…綾木紅朝『ひよどり』(序文:北原白秋)

1930(昭和5)…1月1日付け『因伯時報』に「放哉を思ふ」を掲載。

       1月『因伯時報』新俳句欄選者(湖の会)、『層雲』花楽欄(入門欄)選

         4月16日 前田寛治没。                 

         6月砂丘社前田寛治追悼講演会。倉吉市立明倫小校歌「あおいそら」(校    歌風な、山、川などが読み込まれていない独自のもの)作詞。

あおいそら あおいそら さくらさきみち めぐむもの われらいま われらいま のぞみはたかし うつくしし 

あおいそら あおいそら さくらさきみち めぐむもの

1930(昭和5)…11月、放哉追悼文集『春の烟』(湖の会)刊

つぷつぷ空乳すつて産まれてゐる

1931(昭和6)…9月18日、満州事変

1931(昭和6)…10月1日三女順子誕生。

1931(昭和6)…倉吉「苺の会」(安藤紫雲英・山根志能武・工藤土筆・滝川一甫・久葉草之介・朝倉秋富)

星、みんな消えてしまつた頂上に座る 

1932(昭和7)…前田夕暮『水源地帯』(自由律短歌集)

1932(昭和7)…6月28日三女順子夭折。12月31日五男行雄誕生。

竹の枯葉の散る子の墓に屋根する

蛍一つ二つゐる闇へ子を失うてゐる

「配布資料6」(緑石シンポジウム当日資料の元原稿)から

「蛍一つ二つゐる…」は1932(昭和7)年。この年の6月28日に、前年の10月に生まれたばかりの三女順子を亡くしています。この句の一連に「なんとしても逝かせたことが、夫婦でゐる」という、これまた感動的な句があります。

この「蛍一つ二つゐる…」の句は、映画、アニメ、TVなどにもなった野坂昭如作の『蛍の墓』を思い起こさせます。「蛍一つ二つ」の闇だから、闇がいっそう深いのです。

私の幼い頃の思い出でいえば、ホタルのいる川の岸辺は石積みで、ホオズキのほか、長い青い草が生い茂り、大人から、ホタルの光とヘビの眼とを間違えないようになどと脅されたものでした。ですから、ホタルの闇には暗いイメージさえあります。

闇にホタルを置くと、よけいに闇が深くなるのです。さらにその闇の原因が悲しみならばなおさらです。両親は言葉も出ないでしょう。その両親の様子を詠んだのが「なんとしても逝かせたことが、夫婦でゐる」です。途中の「、」がよく効いています。嗚咽さえ聞こえそうです。

なんとしても逝かせたことが、夫婦でゐる

1932(昭和7)…酒井・片桐飛行士の朝日新聞社機(日満議定書調印式の記事)が八橋沖に遭難

麥がのびる風の白猫

1933(昭和8)…3月25日、碧梧桐俳壇引退表明。

1933(昭和8)…6月、太田夬子(河原町)『時計の影』(表現社…児山敬一・津軽てる主催の新短歌)

1933(昭和8)…7月18日、八橋海岸で水泳訓練中、溺れた同僚を救助後事故死。満36歳。

          この「同僚」とは、あまり記されないが陸軍将校(江原大尉…江原大尉はその後大陸へと左遷になったという)であった。

          当日、緑石は句集「大山」のまとめにかかっており、徹夜続きで体調をくず    していたらしい。句集「大山」をまとめた頃に山頭火・井泉水と大山登山の予定(葬儀時に登山を果たしている)であったという(長男故一明氏長男義和氏談…緑石の生家に在住)。

         のちに、このことが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の溺れたザネリを救いながら自らは命を落としたカンパネルラと同一視されカンパネルラは緑石のことではなかっただろうかという説(小沢俊郎氏)が生まれる。

↓の写真は、夏の日本海(八橋付近)のいさり火。銀河鉄道の舞台にふさわしい。

「緑石院大嶽義行居士」(大嶽=大山、井泉水が選字。「因伯時報」記事には仁嶽)

7月19日付け「因伯新報」記事…「配属将校を助けんとして農業校教諭溺死」

cf.たまたま同記事の横には「教へ子を救はんと教員(徳山正治氏)溺死す」(気高郡)の記事がある

7月21日付け「因伯新報」記事…「配属将校の名誉の為に 誤伝を訂正して発表 河本教諭の溺死情況」

…溺れたのは大尉ではないと(本人発表)

7月23日付け「因伯新報」記事…「涙あらたに われらの犠牲者 河本緑石教諭の校葬」(写真入)

暑い日の影、軒ふかくして供養の膳(井泉水追悼句)

cf.緑石の4男静夫氏がまとめられた緑石作品集『郷土を歩む』(1964.2刊)の「緑石年譜」には、溺れたのは将校ではなく、「農高生と見える者」とある。

1933(昭和8)…9月21日、宮澤賢治死去。

1933(昭和8)…11月、種田山頭火、第二句集『草木塔』(放浪俳人の帰還)

1935(昭和10)…4月『大空放哉傳』荻原井泉水序(香風閣…奥付広告に生田長江<日野町出身>『釈尊』あり))刊行。 尾崎放哉の研究の嚆矢となる。

          10月遺句集『大山』井泉水序。

この書は放哉研究の基礎になる書です。絶版ですが倉吉市立図書館に複製本があり貸出可能です。

1936(昭和11)…秋、「あおぞらの会」(倉吉市:山根志能武・尾崎善七ら)

1940(昭和15)…10月11日種田山頭火死亡

1940(昭和15)…京大俳句事件

1946(昭和21)…鈴木しづ子『春雷』

1949(昭和24)…8月杉原一司(八東町出身)・塚本邦雄らの『メソード』発刊

1952(昭和27)年、6月13日金曜日、管理人押本昌幸、八橋491番地に生まれる(失笑!)

1952(昭和27)…7月20日緑石をしのぶ会(八橋・中井旅館)野坂青也・末次雨城・山下清三・井上有紀夫・三好草一・吉田正・中井金三

1958(昭和33)…遺稿集「緑石詩集」(謄写版)

1962(昭和37)…11月遺稿句集『村の下道』刊行。

1963(昭和38)…10月、県立図書館倉吉分館で「河本緑石遺作展」

1964(昭和39)…2月、拾遺句文集『郷土を歩む』(河本静夫編)

1971(昭和46)…2月大山澄太『俳人山頭火の生涯』発行。

1972(昭和47)…2月村上護『放浪の俳人山頭火』ベストセラーに、山頭火ブーム到来。

1982(昭和57)…8月倉吉おやこ劇場自主公演、ミュージカル『星めぐり〜緑石と 賢治』(波田野頌二郎氏脚本ほか)(カンパネルラは緑石か…)

1990(平成2)…山頭火(50周忌)の緑石追悼句碑、逢束海岸に建立(鳥取山陰山頭火の会)。

波のうねりを影がおよぐよ

夜蝉のぢつと暗い空

「緑石はまだ見ぬ友の中では最も親しい最も好きな友であった。一度来訪してもらう約束であったし、一度往訪する心組でもあった。それがすべて空になってしまった。どんなに惜しんでも惜しみきれない緑石である。あゝ。」〜昭和8年7月21日山頭火日記「其中庵」から〜

右の写真は、其中庵に入庵したときに山頭火から礼に緑石に送られてきたもの(河本家所蔵)

1997(平成9)…7月、生誕100周年記念展(倉吉博物館) 実施委員(高多彬臣氏ほか)

2003(平成15)…11月、県文化観光局、尾崎放哉シンポジウム(佐高信・藤津滋人・小山貴子・田中伸和・森克充の各氏)

2005(平成17)…1月、尾崎放哉を知る会「尾崎放哉講演会」小山貴子・金子兜太両氏

2006(平成18)…1月、県主催「ふるさとの大地に生きた詩人 河本緑石」シンポジウム開催(倉吉未来中心小ホール)

「偉大な憂鬱者」

この年譜をまとめてみると、鳥取県人には、文学において革新的な人物が多く輩出し、しかも全国的な活躍をしていることに気がついた。その理由を探ってみたが、ひとつには風土が安定していて、大きな風水害、大雪、旱魃などがあまりない。これは権力闘争、大政治家の台頭を見ないことからも納得できる。現代では、日本海側は「裏」であるが、出雲王国の栄えた頃は完全に「表」であった。この気概、精神的な創造性が、文学的な革新性の源かもしれない。

山下清三氏がその恩師に聞いた言葉として「山陰は、雨や雪の日が多く、暗くてつまらないところのように多くの人はいうけれど、わしには、あながちそうとばかりりは思われない。寒くて暗い北のロシアからは、世界に知られた文学者が生まれている。そのことを考えると、この暗いじめじめした山陰からも、偉い人間が生まれてくるはずだと考えられるのだ。わしは、その人間を『偉大な憂鬱者』だとしている。そうだ、たしかに、他地方には見ることのできない偉大な憂鬱者が、こういう土地から生まれてよいはずである」山下清三『文学の虹立つ道』「奥田吉蔵」から

冒頭の今村実氏のいう「風景のかなたを凝視する鋭い眼」「ある諦念」と山下清三氏の恩師奥田吉蔵氏のいわれた「偉大な憂鬱者」は、気質的に同根であろうと思われる。そういうところに河本緑石の意外な位置があるように思われたのである。

 ※砂丘社

この砂丘とは北条砂丘(東伯郡北条町)を指す。

  1920(大正9)年4月。倉吉中学校の美術教諭の中井金三(東京美学校西洋画科卒、同級に藤田嗣治など)のもとに集まっていた石亀政美、前田寛治河本義行(緑石)、増田英一、高塚弥之助、前田利三、石亀忠利、加藤晃により創立。同人誌「砂丘」ほか、絵画展、また、文学講演会、舞踊・音楽公演等の企画をし、地方文化の牽引車として活躍したとされる。

主な、記録に残る名は、前田寛治(同人)、加藤朝鳥、秋田雨雀、橋浦泰雄、荻原井泉水、永井郁子、石井漠、東京松竹音劇部、など。(『緑石の生涯』1997年譜から)

このうち、加藤朝鳥(1886-1938)は緑石と同じ村の出身であり、当時大正時代日本で随一の翻訳家であった。おそらく、緑石が依頼したものだろう。しかし、現在、加藤朝鳥は地元では緑石よりなお評価されていない。ひとつには米子中学で過ごしたせいかもしれない。

一般に「文学者」のイメージは、病弱で色白な色男であったり、破天荒な人生を送る「生活破綻者」であったりする。

それからすると、河本緑石は「文学者」のイメージとは遠い。屈強な体躯、倉吉中学時代に「東郷湖横断競泳」の記録を残し、倉吉中学野球部の捕手として活躍したとある。三島由紀夫が望んでいたようなアポロン的な身体の持ち主であった。

しかし、外見上はアポロンでも、中身はどうか。

「胸に鬱屈したものを抱きながらも、親の言われる通り故郷に帰ってきた。律儀で生真面目な山陰人なのである」

(鳥取女子短期大学助教授:故今村実氏)

暗い空の雪風に眼がゐる(1927年)

うつろなほら穴に息をすひに来た (〃)

死んで俺が水の中にすんでいる夢だった(〃)

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参考文献等

河本緑石『荒海の屋根屋根』『夢の破片』『大空放哉伝』『郷土を歩む』森荘已池校註『宮澤賢治歌集』湖の会編『春の烟』太田夬子『時計の影』鈴木しづ子『春雷』村尾草樹『放哉そのすべて』生誕100年記念誌『緑石の生涯』複写資料『因伯時報』山下清三『文学の虹立つ道』『鳥取の文学山脈』西田千世『句集 小さな灯』竹内道夫『伯耆の近代文学史』千葉一幹『銀河鉄道の夜…しあわせさがし』金子兜太『種田山頭火』小山貴子『暮れ果つるまで』岡本千万太郎『現代俳句の批判的考察』まつもと・かずや『戦後世相史と口語俳句』新潮社『短歌・俳句・川柳101年』上田都史『自由律俳句とは何か』平田オリザ『現代口語演劇のために』白石昂『現代短歌とは何か』三枝昂之『昭和短歌の精神史』鳥取県文化観光局『尾崎放哉講演会記録集』倉吉市教育委員会『倉吉文芸49号』今村実「生誕100年河本緑石〜その文学と生涯」(日本海新聞掲載資料)ほかインターネット検索による。河本義和氏夫妻談。 

cf. 荒海や佐渡によこたふ天の川(1689・芭蕉)

奥底のしれぬさむさや海の音(18世紀・豊田屋哥川)

海に出て木枯らし帰るところ無し(1944・山口誓子)