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最終更新日2012/05/18

ポエトピア若山牧水ゼミ(第3回)

1976.9.5 13:00〜16:30

武蔵野公会堂第3会議室

リポーター 押本昌幸

T.今回のリポートの意義・目的

「歌論」のない牧水の論をまとめること

わたしたちにとっての──牧水。

ポエトピア(「倚子」の前々身)の「うた」の源の探究。

U.短歌史のうえの牧水の位置

  •    小沢蘆庵(17231801)の「ただごと歌」を唱道。

  •  ↓ 

    香川景樹(17681843)の近代語の採用と「しらべ」の唱道。

     ↓

    正岡子規(18671901)の「写生」の提唱。

     ↓ 

    与謝野鉄幹(18731935)の欧化主義の導入。

     ↓ 

    「いかづち会」(服部躬治、久保猪之吉、尾上紫舟)と窪田空穂による「自然主義」の移入、「叙景詩」としての歌の提唱。

     ↓ 

    この流れの線上に若山牧水(18851928)がある。

    V.牧水の「人生観」

     「人の生れているということは一面また云い難い苦しいことである。寂しいことである。我らは生れながらにして先天的に、本能的に、生きて行かねばならぬ運命を負わせられている。極めて稀れにこの運命から逃るるためにみずから自己の生を断つ人が無いではないが、それはまた容易な苦悩から出たことではない。多くはみな苦しみながら賦与せられただけの生命を、運命を、背負いつつ辛うじて彼岸まで、死まで辿ってゆく。人によってはこれは実に年数を離れた長い長い行程であらねばならぬ。その長い間の苦しさ、それに耐えてゆく寂しさ、それをどうして漏らし訴えようとするか。私はそれを歌にうたえという。」(『短歌作法』上篇・第二「詠歌のすすめ」大正111922>年12月・春陽堂)

    W.短歌(詩歌・芸術)観

     「私の芸術の対象は全部『自己』そのものである。あらゆる外界の森羅万象も悉くその『自己』というのものに帰着せしめて初めて其処に存在の意義を認める。そして、私は宇宙の間に生み落とされた『自己(われ)』の全部を知り確めんがためにのみ生存しているものというように思っている。畢竟、我が生存の意義は『自己(われ)』を知り、自己の全てを尽すことに由って初めて生じて来るものと信じている。」(『牧水歌話』<雨夜座談>明治431910>年3月・文華堂書房)

     「……真実の歌の出来る第1の要素はその作者が自ら営む生活に対して如何に熱心であるか忠実であるかに係っているようである。」(『作歌捷径/批評と添削』「歌についての感想」大正9<1920>年12月・聚英閣)

     「いのちの寂しさに耐え兼ねて叫ぶ声。よろこびに挙ぐる声。それが即ち我らの歌でありたい。

      私はまたこうも思う。みずから挙げたその叫びによってその寂しさはさらに鋭く、よろこびは更に深く、歩一歩我らの生命の歩みに力を添うるものが即ち我らの歌でありたいと。」(同「夜話」)

     「諸君は諸君の顔や身体の美しく活々としていようとの希望を懐かないか。…………よろこびにうたう歌、悲しみにうたう歌……あらゆる俗謡唱歌もみなこの目的に添うている。唯だ和歌はその一層内的に、霊的になったものに過ぎぬのである。」(同「詠歌のすすめ」)

     「歌は心の糧である、と私は前に言った。が、これは実は第二次の言葉で、言うまでもなく歌は我らが心そのものの現われである。今少しつきつめて言えば心そのものである。霊そのものである。(言っておく、私は『心』という言葉、『霊』という言葉、乃至は『生命』若しくは単に『人』という言葉を常に同意義に使っている。)故に、心の小さきよりは小さき歌生れ、心の大きなるよりは偉大な歌が生れて来るのは当然であろう・貧しき霊よりは貧しき歌以外生れ出でず、豊かな霊には必ず豊かなる歌が生れる。」(『短歌作法』上篇・第四「何を如何に読むべきか」・同)

     「歌は即ち『ウタ』である。其処等に百姓がうたい荷馬車引がうたい、職工がうたい、軍人がうたい、学生がうたい、役者がうたい、芸者がうたっているあのいろいろな『ウタ』と同じものである。もとをただせば同じである。……彼らの『ウタ』は要するに痛し痒しの域を去ること遠からぬもので、単純至極のものが多い。可笑しければ笑い、悲しければ泣くと云った形である。それで満足していらるればいいが、必ずやそれだけで満足出来ぬ境地にまで心の鍛錬が押し進められてゆくに相違ない。各自の心が次第に深くなり、複雑になってゆくに相違ない。イヤ、相違ないではない、此処に我らがこの『歌』の欲求を持っているのが現にその証拠である。」(『和歌講座』第一編第二章「歌とは何か」大正121923)年12月)

    X短歌のかたち

    歌の発生

    「歌が詠んでみたい、という心持は、必ずやその裏に何か知ら、一種の『欲求』『満足』もしくは『未満』を懐いているに相違ない。」(『短歌作法』上篇・第一「歌が詠みたい、詠んで見ようという人」・同)

    「歌を自分から放棄するものだとのみに考うることは正しくない。放散も無論よろしい。が、その一方に自分に浸透して来るものでも歌はあらねばならぬ。浸透し来たって内に深く湛えうるものでもあらねばならぬ。

     もともと詩歌はこの放散主義からうまれたものであったかも知れぬ。然しいつまでもその出発点に突っ立って手を振り足を動かしてのみいるのは決して聡明なやりかたでない。」(『創作』昭和2<1927>年3月号「歌話一題」)

    歌の形

    「……私の貧しい経験から見たところでは、矢張りこの5・7が一番よく自分の心と一致し易かったかと思っている。

     けれども、この5・7調を喜ぶ所以は、他からひとりでに与えられた型ではあり、身辺悉く之によって埋められていたため、他を知るの暇なくこうなったのではないかと疑えば疑い得る余地がある。私も唯だ比較的にこの5・7調、就中5・7・5・7・7の一形式を選んだだけで、これに強ち絶対の権威を認めているのでは決して無い。例の八雲たつ……の時代からは我らの体質にも思想にも感覚感情にも余程の変移を生じているだろうと思う。この点から見ても、その諧調上に同じく何らかの変移があって然る可きではあるまいか。

     先ず何ともつかぬ不自由を感じ、ついでにこういう事を疑い始めた私は近来斯く旧型の外に出た型に由って我が謂う歌を歌いはじめている。根本は矢張り5・7、7・5の調に出ているようだが、時に或は長く、或は短く、要はその歌の内容が含める諧調に従って終始しているものの如くである。」(『牧水歌話』「雨夜座談」・同)

    歌の在り様

    ・歌を自分の宗教とする。(毛利雨一樓宛書簡・大正121923>年12月14 日)

     ・歌はまことなり、真は新なり。

     ・不治の病者の枕もとの薬。(『牧水歌話』「樅の木蔭より<その二>」・同)  

     ・歌は人の心の糧ではある。(『短歌作法』「詠歌のすすめ」・同)

    歌の目的

    「国木田独歩は、我とは何ぞやという問は強ちにその答えを要求し得て初めて意味あるものではない、問そのものが既に実在である、という様なことをその詩のなかに言っている。私もまたこの意味に於て切りにこの疑問を宇宙の間に放ちつつ、その発掘に努めている。其処で私は改めてこういい得ると思う。即ち、我が歌は宇宙に存在する我を知悉せんとする努力なりと。」(『牧水歌話』「雨夜座談」・同)

    「畢竟歌を知るは人生を知ることである。人生を、自己自身のいのちを知るは即ち歌を知ることであると言うても敢えて過言ではないからである。」(『短歌作法』「詠歌のすすめ」・同)

    「歌はまことに疲れ汚れた心を洗い浄め、歩一歩美しく、且つ活気づけて行こうとする使命を帯びているものである。」(同)

    Y.「写 生」

     「私は『写生』を要するに『自然』の奥所に到らんとする努力の一段階であり、他方面から言えば作歌上に於ける手段の一つだと思っているのである。

      『写生』は斯くて静かに『自然』に親しんで行く事を教える。静かにものに対する、対してその奥所を観る事を教える。取り乱した感激や、お座なりの述懐などは自ずとそのために取り除かれる。思わせぶりや甘い感傷などに対してもまた然うである。(『作歌捷径/批評と添削』「桐の葉の蔭その二」・同)

    Z.「実 感」

     「然し私が此処で、作歌の上で、謂う実感は一般のそれらを指すのでなく、或る限られたものである。御承知のごとく歌は芸術のうちでも型の小さい詩歌のうちにあって更に小さな形を持ったものである。そしてその取扱う範囲は一般の散文などと違って或る限られた方面──一口に言えば人間の霊魂のはたらきを主として詠み出ずるものである。」(『短歌作法』下篇・第三「実感より詠め」・同)

    [.「自 然」     

     「要はただその時眺めた景色がいかに自分の心を動かしたか、その景色は対したか、その景色に対して自分の心がいかに動いて行ったか、いかなる姿となってその景色と自分の心とが次第に融け合って、洗錬されて、其処に一つの新しい『自然』を作る、其処まで行って初めてまことの叙景の歌が生れて来るのだと私は思う。決して単なる景色の説明や見取図ではないのである。」(『作歌捷径/批評と添削』「桐の葉の蔭その二」・同)

    「私は詠歌の上に『自然』ということを非常に重んずる。此処で『自然』というのは普通にいう山川草木の風景を指すのでなく、それら風景や我ら人間その他の一切を引っくるめた大自然界の諸現象の中に通じて流動している一種の霊感謂わば宇宙意志とかいうべきものであるのだ。……(第12回文展の絵についてより)こういう風景はこういう感じをひとにそそるもの、こういう人物はこういう印象を人に与うるもの、と云った風の『自然』に対する普遍的な理解や統計から出た考え即ち『自然』そのものではないが『自然』から出た『概念』は誠に違算なくそれらの絵に表われている。けれども要するにそれらは『概念』せある。『自然』の干乾びた解釈であって、終に生動止むなき『自然』そのものの表われではないのである。塗られた絵具は単なる絵具であって『自然』そのものの発する光ではないのである。」(『短歌作法』下篇・第二「自然そのものとその概念」・同)

    \.「主観と客観」

     「客観的ということ、つまり客観的に詠むということ、それは決して難ずべきではありません、澄み入った主観はまた直ちに客観でしょう、象徴というのは其処から出ているのではないでしょうか、歌の姿の主観的客観的はその場その場のことで、問題ないと思います、おなじことなら、荒い言葉を無くしたその純客観の姿で歌いつくしたいとも思っているのです、」(中村柊花宛書簡・大正5<1916>年2月8日)

     「短歌は表面から主観的の詠みぶりでなくてはならぬように多くの人は言っているが、それには私らは耳を傾くる必要がない。主観とは何にも肩をあげた姿ばかりをいうので無いのだ。」(『牧水歌話』「自歌自釈」・同)

     「よく自然を詠み入るる私の歌を見て、私の歌に主観が無くなったように非難する人がある。我がこころゆく山川草木に対う時それを歌う時、山川草木は直ちに私の心である。心が彼らのすがたを仮ってあらわれたものにすぎぬ。その歌に主観のこもらぬ道理のあろう筈がないと私は信じている。これは、主観そのものでなく主観の説明を所謂強烈な主観だと心得ている人々には或は物足らぬことかも知れぬが、振返ってその人々にその人々の主観の有無をさぐらせ度い。早い話が、私が同じ態度で茲に女を歌えば決してこの非難は起りはせぬ。山を歌えば大した理由のもとにそれが起る。要は流行の証明にすぎないのである。」(同「技巧私見 その他二三」・同)

    ].「調べ」「形式」       上に戻る

     「散文的であるという事に就いて今一言附加えさせて頂き度い。それもいま断然こうだと言い切ることは出来ないので、謂わばそれに対して疑いを存しておくというに留っている。私は私の歌のなかから全然この散文的の分子を駆除し得ないのである。私は自身の歌を読む時に於て、その歌の極めて印象深く鋭どからむことを欲する。如何にせば輪が思う所を、何ら弱むることなく、小さくすることなく、変形することなく発表し得るかという事に就いて苦心する。そのためにはあらゆる手段を選び度くない。だから、結果の如何によっては時に説明を用うることもある、散文口調に拠ることもある。強ちに所謂韻文そのもののために盲従することを欲しない。我らが和歌そのものの形式を仮るに至ったそもそもも即ち其処にある。我々は我々の生命のあらわれに最も親しい形式として和歌を採ったに過ぎないのだ。なにも和歌のために自己そのものを右往左往さする煩を学ぶ要は無いのである。」(同「樅の木蔭より その一」・同)

     「X−b.歌の形」(『牧水歌話』「雨夜座談」・同)の引用参照。

     「我が謂う歌を歌う時、我が生命は極めて高潮に達し、切迫しつめている時である。その時、其処に殆んど思想、感情と盛り分け得る余裕などありはせぬ。漠然として透明な白熱した一個の生命そのものがあるのみである。その時その生命の赴く諧調音律に従い極めて自由な形式を採って歌い出でたらそれで即ち充分である。…………………………

      私にとっては多く呪われがちな形式も、時としてそのあまりに巧妙に間隙なく用いられてあるのを見る時、私は常に我を忘れて讃嘆する。饐えたる憎悪は変じて讃美となり、芸術は形式なり、とさえ叫ぶ時もある。

      芸術と形式との問題は、恐らく私の一生を貫く悲劇ではなかろうかと思う時もある。」(同)

     「此頃『歌う』ということと『語る』ということとをよく混同する人がある。歌はやはり体を真直ぐにして、額をあげてうたいあぐべきものである。首をかしげ、眼つきを変え、手ぶりを混えて饒舌り込むのとは全然に違っている。」(『作歌捷径/批評と添削』「批評と添削 その二」・同)

     「歌は話の、出来事の、『筋』ではない、感動そのものであらねばならなぬと云うた。 其処でむずかしくなって来るのは歌に用うる言葉である。文字である。

    元来、言葉や文字は出来事の経緯、始末を伝うるためのものである。而して歌ではその経緯始末──引っくるめて『筋』と言おう──を忌むという。が、歌だとて前にも言った様に何らかの『筋』がなくては形を成さぬ。『筋』を伝うるためには言葉が必要である。『筋』を伝えて而かもその『筋』 を表わさないというのが歌に於ける言葉の使命なのである。

    要するに歌に於ける言葉は、或る出来事を伝えはするが、出来事そのものの経緯ではなくして、その出来事に対する作者の感動を伝うるを以って旨とする、ということになるのである。嘆きの時、或は稀に喜びの場合、心から発する溜息、あの溜息となって言葉が表われて来ればいいのである。

    其処で起って来るのが即ち『調べ』である。『筋』を伝うるのみであれば単に平明であれば事足る。官署其他の報告書の如きものである。が、『筋』から生ずる感動を伝うるとなると、それでは済まなくなる。其処に起伏を生じて来ねばならぬ。それが即ち『調べ』である。幕末の大歌人香川景樹はこの『調べ』を悉く敬重して、歌は『調べ』 そのものである、とすら言った。『歌は調ぶるものなり、ことわるものにあらず』というのだ、ことわるのは断る、即ち説明すべきものではないの謂いである。

    『調べ』は調子である。が、所謂お調子であってはならぬ。よくお調子に乗ってどうこうしたという。あのお調子であってはならぬ。『感情』の章に於て述べたが如く、この調子も普通いう感情と同じくともすれば上辷りのしたくなるものである。それでは本当の『調べ』ではない。所謂お調子である。真実の『調べ』はよく森厳によく荘重によく闊達によく微妙に、総じて『自然』から生じて来る『おのずからなる調べ』であらねばならぬ。小細工をほどこしたお調子であってはならぬ。前述の新派悲劇式の感情からは真実の『調べ』は出ず、よくこのお調子が出るものである。

    私は曾って歌を数珠にたとえてこう言ったことがある、『眼を瞑じ指を延べ静かにその数珠にさわって見よ玲瓏たる数珠の肌のみを感ずるか、それとも指頭に若干の埃を感ずるか』と。この埃が即ち言葉の充分に用いられていない場合に生じて来るものである。歌が筋ばっている場合など、ことにそうである。」(『和歌講座』第二編第四章「言葉と調べ」・同)

    【答】 『調べ』が古語のみにあると思うのは間違いです。『調べ』はいつもいう通りただのお調子や上っ調子ではなく、作者の心の動きを伝える、極く生々しいものであらねばならぬ。それを強いて古語によったりして出そうとすればそれはもう本当の『調べ』ではなくなる事になろう。 

    それかと言って座談平語式のものを作れば歌に骨の抜けた、わたしの所謂『そうですか歌』になる。

    文部省改正案なるものを知らないのでそれについては返事しかねるが、わたしは然し今の所はまだ仮名づかいは従来のものでよいと思う。よし発音に多少の差などが出来るとはいえ、寧ろ其処に心のしまりがつくことになるかもしれぬ。

    少年達の歌はそれでよいでしょう。然し我らは大人であるのである。」(昭和2<1927>年11月〜昭和3<1928>年8月『創作』「質疑応答」)

     「牧水は、一流の吟詠法を持っていた。……伊勢の皇学館から、直井敬三と云う人が、私と同じ学校(國學院大学)で、科の違った高等師範部に転入して来た。これが牧水の同国人で、東京に来ても親しく往き来していたらしい。……」そんな訳で直井君がその節を伝えていた。今でも大橋(松平)・大悟法その他の牧水門の諸君の歌うあの節は、おそらく直井君を通じて、皇学館から牧水に伝わったものではないかと思うている。」(折口信夫「牧水詠嘆」<昭和261951》年4月『短歌聲調』>)

    ]T.「近代短歌観

     「昔の歌、即ち旧派の歌などに於ては『何の歌を作る』ということが問題であるようだが、新しい歌ではその『何の』というのは殆んど問題にならぬ。即ち材料は何でもいいのだ、唯だ作る人の心それ自身が問題であるのである。『何の歌』は問題ではないが『何う詠むか』『何んなに詠むか』が問題である。即ち詠む態度と詠む技巧とが主となっているのである。」(『短歌作法』上篇・第七「写生」・同)

    ]U.『みなかみ』(大正2<1913>年9月・籾山書店)……「口語歌」「破調の歌」

    穴(す)だらけのわが心のその穴にこの穴に小鳥が眼を出しぴいと啼き、ぴいと啼く

    人がみなものをいふうとましさよ、わがくちびるのみにくさよ

    「私の近ごろの作は、あれは私だけの作で、君らはしばらくあれには関せず焉の態度をおとりになるがよろしいと思う、あゝいうこころの境地まで行かねば、あゝいう歌の心は解りません、また作としても完備したものでは決してありません、自分にひそかな自信を抱いているきりのことで、世間の評判は別な話です、……」(小倉暮笛宛書簡・大正2<1913>年2月13日)

    「君は『みなかみ』を読んでくれたか、僕はあの本の著者であることを、自分ながら非常な幸福に感じている、僕はそうした過去に圧迫されてはならぬと不安をも感じている、」(平賀財蔵宛書簡・大正2<1913>年1218日)

    大正2(1913)年9月号『創作』

    * 北原白秋「破調私見」

  • * 牧水自身の「 我が破調の由来並びに雑感」 (→あまりに甚大な文章で頁数の関係から不 掲載となる)

  • *「 いわゆる破調の歌を今後普通の短歌と引離して別種のものと認めるという」 (大悟法利雄『若山牧水伝』「 東京と三浦半島」 昭和511976)年7月・短歌新聞社)

  • ]V.「短 唱」(大正2<1913>年11月号『創作』に掲載)

     「牧水は大正元(1912)年秋から2年春までの故郷滞在中に『みなかみ』所載のいわゆる『破調の歌』を作った。そして出京して作歌を続けるに当って定型にかえったが、『破調の歌』を直ちに放棄してしまうつもりはなかった。しかし実際に作ってみるとそれはもうあまりに定型から逸脱しすぎて、『短歌』とは呼べないものとなってしまったので、一つの新しい詩として『短唱』と呼ぶことになった。ただ、それは永続しなかった。」(若山喜志子・大悟法利雄共編『若山牧水全集』第9巻「解説」・昭和331958-1959>年・雄鶏社)

      人間のこころ知るれる蛇あり

      這ひ出でむとしてあをき眼(め)をあぐ

           ×

      我にかかはりあらずして

       蝉啼き、雲照り

      秋深みゆく

           ×

      ざわ〜〜に木の葉さわぎ

       餓えつつ蝉も啼けるに

      わが眩暈(めまい)のしげきことかな

           ×

      よろぼひて戸外(そと)に出づ

      倦み疲れて額(ひたひ)はうすきガラスなすに

      色を落せ、秋の太陽

           ×

      禁(とど)めかね

       醜き慾に引かれつつ

      瞑づる瞼の、その青葉色

           ×

      闇の市

      闇の市街に、獸(けだもの)の毛の如き闇の市街に

       雨そそぐ

      ばら〜〜のわが心、わが苦痛

           ×

      風も吹かぬに、路傍のおち葉さん〜〜と

       して散(ちら)ばふ

      厭(いと)はしき知人(ちじん)を多く見る日かな

           ×

      わがそばに黙々として酒飲む老人あり

       刑事とも見え、疲れし船員とも見ゆ

      蒼ざめし秋の酒場(さかば)や

           ×

      林檎の、腐れしごとき酒場なり

       かくてなほとりあつめがたきわが心は秋の葉の散れ

       るにも似む

      さては、その落ち葉のうへを這ひありく蟻か、この酒

    ≪参考文献≫

    『若山牧水全集』若山喜志子・大悟法利雄共編/昭和331958)〜341959)年・雄鶏社

     第B・4・9・111213巻 Bは必読(都立図書館蔵書)

    『若山牧水全歌集』大悟法利雄編/昭和501975)年・短歌新聞社

    『若山牧水伝』大悟法利雄/昭和511976)年・短歌新聞社

    『折口信夫全集』中公文庫第5・25巻/昭和511976)年・中央公論社

    『啄木と牧水』草壁焔太/昭和511976)年・貿易出版社 

    ]W.まとめ

    牧水の「和歌論」

  • 「 認識論」

  •      ・(ウタは)はじめに『心』ありき

  •      ・人は「生きる」という哀しい運命を背負っている。その「生きてゆく」という過程に   生じる『満足』、『不満足』、『欲求』、即ち霊魂の訴えるのが、歌である。

  • ・その歌に現われた自己を省察し、己れの存在を知り尽くしてゆく、という過程がまた生きることの意義でもある。

  • ・従って、歌の価値は、歌う人の、心霊、生き方の態度に係っている。    

  •     「方法論」

         ・歌は、霊魂に生じた『実感』をもって詠む。

         ・天然・人間を貫く『自然』を正しく把握するための「写生」が要る。

  • 「 実践論」

  • ・己れの体質、思想、感覚感情(即ち様式)に基づく諧調を得るべきだ。

    ・霊魂の訴えとは、嘆き、喜びの、心から発する溜息である(これが詩形式を自ずと定める)。それらの出来事に対する作者の感動を伝えるのが歌の言葉である。

    以上は、牧水の伝えてくれた歌そのものであり、「叙景歌」云々は単に牧水の発表した歌というにすぎない。

    牧水は近代短歌の本質である、拡大された素材(写生、そうですか歌)、それによる拡大された担い手(歌を己れの宗教…)、近代的個人の霊魂による調べ、を確かに把んでいた。しかし「短唱」の中止、限界は、文語表現による、形式と自己の魂の波長との不一致ではなかっただろうか。もし、ポエトピアの歌が牧水の歌をこえるとすれば、各個人の練磨された霊魂の波長と表白された言語の調子との一致を見いだすことにありはしないだろうか。

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    以上。これを受けて「何故、牧水か」と題し、『ポエトピア』31号(1977.5ポエトピア社)から『だんがあち』第6号(1980.1)まで10回まで連載した。

    参考小史

    『ポエトピア』1972年5月、桑原政昭とあさの・えいじが創刊(謄写版)。のち押本昌幸柳町正則などが加入、「ポエトピア社」として総合芸術文化集団として吉祥寺を中心に活動。

    『だんがあち』197810月、あさの・えいじ、柳町正則、押本昌幸で短歌誌として創刊。山崎真治が加入。

    『倚子』1984年2月、山崎真治の先生でもあった玉城徹氏が命名。あさの・押本・柳町・山崎を中心として再出発。全編「横書き」に統一。

    おまけ

    『創作』(臨時増刊号1978.9)「牧水没後50年・目次」

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