この度、河本緑石研究会では『ふらここ叢書 河本緑石作品集3』(
650円)を刊行しました。その中に同人誌『深緑帖』の表紙に次のような文言があります。
ある人その葡萄畠に植えおきたる無花果樹ありしが、来りてそれに実を求むれど
得ざりければ、其ノ畠作りに言ひけるは、われ三年来りてそれに実を求むれど得
ず、それを切り去れ。なんぞいたづらに地をふさぐや。
畠作り答へけるは、主よ我そのままりをほりて肥するまで今年もゆるせ。もし実
を結ばばよし、結ばずば後にそれを折るべし。
波田野氏の解説によれば新約聖書の「ルカによる福音書第
13章6節から9節」の引用とのこと。単純には、「実がならないイチジクの木を切り倒すのではなく、実が実るようにキリストは世話をし、肥料を与え、育てたという」話。
『深緑帖』の発行日は
1921(大正10)年7月。緑石はその年の3月に軍隊を除隊になり翌年3月信州に赴くまでの期間となります。

当時、倉吉にいくつキリスト教会があったのかわかりませんが、少なくとも東岩倉町
2276番地にはアドベント教会がありました。これを1898年、同町2263-1の自宅で開設したのが岩越政蔵です。
下北条の大庄屋岩本廉蔵の四男で、アメリカに菓子製造と農業全般の修業に出向きます。
が、キリスト信者となり、帰国後、友と共に、菓子製造により自給しつつ伝道しようとしたらしいのです。その友とは、森永太一郎=森永キャラメルの創始者でした。これを聞けば、森永のエンゼルマークも納得がいきます。
日本アドベント・キリスト教団の発祥の地(日本プロテスタント教会発祥の地のひとつといってもよいかもしれない)が倉吉であったのです。
今も政蔵の開いた教会の建物は同所にあります。同教会は、仔細は不明ですが、1979年に日本アドベント・キリスト教団を離脱しているそうです。現在、政蔵の流れを汲む中部地区での教会は北栄町由良宿、琴浦町赤碕、倉吉市大谷にあります。
緑石の倉吉中学への通学路に岩越政蔵の教会があったことは事実です。政蔵の1914年から43年までの『牧会日誌』が残っているということですが、緑石の在学期間だけはありません。想像するしかありません。姪娘の孫(押本)記す。
↓打吹公園(旧熊飼育舎)裏の政蔵の墓
(中央…勝入寺墓地東端)
[Mapion地図]

【参考図書】
(『われ信ず』『勝利をめざして』は由良キリスト教会に残部僅在)
『われ信ず』1977年2月、日本アドベント教育部
『勝利をめざして』1986年3月、岩越政蔵著・荻野昭編、日本アドベントキリスト教団・岩越政蔵牧師遺稿集刊行会
『
北条町が誇る人物誌シリーズ 1』2003年、北条(現・北栄)町歴史民俗資料館編
『鳥取県史・近代篇・社会文化篇』1969年1月、鳥取県
日本兵士人民の急速引揚秘話
アドベント教団の活躍
岩越 重雄(1909〜1999・岩越政蔵の孫:大阪市在住弁理士)
(岩越)政蔵牧師は元々商売人で、青年時代、幕府の強権力で潰された大阪の巨大な淀屋財閥の再建のため、日本全国に出雲の玉鋼製の「稲扱きせんば」を売りまくって居た時、実父の命を受けて米国にて8年、洋菓子の製法を学びました(同行した山崎太一郎はのち森永製菓を起こす)。
米国の家庭の健全さと、愛情深いのは基督教に基が有ると知り、ニューイングランド州でも格式高いアドベント教会に入門し、8年間勉強し、製菓業を棄てて基督教の伝道の為に故郷倉吉に帰り(
1898年)、僅かな米国の親友に助けられ一生郷土で働きました。
小さな教会でした。アドベント教会は早くより中国に多くの会堂を持ち、大学校もありました。祖父政蔵は中国人を愛し、志を通じて居ました。伝道者も行き来して居ました。尊敬すべき立派な方々も多かったのでした。
私も祖父の奨めで阪大(大阪大学)卒業前の夏、先の上海事変(
1932年)の直後に満鉄に実習にいき、青島、上海、終に南京にまで潜入しまして、永年文通して親戚づき合いした教養高い揚牧師や大学教授・学生達と語らい仲良しとなり、中国の智識階級に全くチャームされたのです。
昭和
12年(1937)結婚後3ヶ月の夏、私に召集令が来ました。私は基本的に人間みな兄弟、という信念があり、又アジアに巨大な赤軍国家
(共産国)が出来るのを阻止して大東亜共栄圏を作り度いと思って居たので、これは中国と手を握るチャンスだと祖父共々大喜び、中国と日本の将来の為秘密の働きも出来る覚悟しました。
私は南京入城後直ちに揚牧師の教会に馳けつけました。荒れはてて足の踏みばもなく誰も居ない。書斎の白壁に鉛筆で、再会して保護したいと書き付けたが、再会は翌(1938)年の春、抱き合って泣きました。
揚牧師の教会堂は国立の中央大学の隣屋敷、構内には南京攻略に武勲を上げた細見戦車部隊がギッシリ入っている。前は、捕虜収容所、表の大通りからは歩哨線が5ヶ所あって、この辺には中国人は踏み込めない。南京市内では礼拝する場所がなく教会再建の見込みもなかったのです。
揚牧師は市内牧師の委員長で、ここで教会礼拝をあきらめたら、中国の基督教は壊滅の道を進むより他ない。私は故郷で手を合わせている祖父母の姿をまぶたに見て、決死の覚悟でこの細見部隊長に談判することにしました。
明日からこの部隊の戦車は、弾丸、薬品、食料を私の部隊が徐州への麦と兵隊の大荒野に輸送するのです。大学の大門で歩哨は通して呉れました。多分、部隊長の親戚の者と思ったのでしょう。次々と奥深く案内され、愈覚悟を決めなければならない時です。部隊長室に案内されました。
入ると部隊長は日本刀を抜いて粉打ち手入れをして居られる。私は熱血をこめ、誠意血を吐く思いで要件をお願いしました。顔も上げず、黙っておられる。しばらくして、「君も知っての通り徐州に向って進発するので力になれない。この地区の憲兵隊に行き給え」私の
生命は助かった。然しこんな事を憲兵隊に持ち込んだら直ちに営倉にブチ込まれるだけだ、私の心は絶望的だった。
私は生きて故郷に帰れるとは思えない、この件で殺されることを覚悟して
1週間後憲兵隊に乗り込んだ、意外や意外、隊長は待って居たとばかりニコニコ顔で「礼拝に集まるのは何人くらいか」と聞かれた。「200名です」と答えるとなんと「腕章200人分作ってあげよう。然し条件がある。4列縦隊の先頭に日本軍の下士官1名が引率者となり歩哨線を通ってもらいたい」と云う事だ。困った事になった。
私は徐州攻略に進撃せねばならず南京にうろついていられない。真夏の焼付く様な日中トボトボと歩いていて考え込んでいると、南京攻撃で破壊された戦車を山の様に積み、その下部に空間を作り1人の軍曹がねころんで居る。
「暑いですなあ」と腰を下ろして見ると顔半分は崩れ、足は1本しかない凄い姿である。憲兵隊長の話をすると、「自分は何もすることがないのでここで寝起きしてるだけ、その
200名の礼拝行きの先導役をしてあげよう」とのこと。天にも昇る思いで手を握り泣いて感謝した訳です。
これは全く神様のお助けだと心から思いました。祖父母が山に登ってお祈りしているからです。
サア、これを教会に伝えた時の
200人の信者さんの喜びは凄いもので、その後、毎日曜日、この不自由な身体の
(佐野)軍曹は美事に約束を1年近くも果され、その光景は日本兵、中国人一様に称賛したそうです。この様にしてこの揚牧師のアドベント教会は南京が落ちて初めての市民の礼拝だったのです。
この事件の後、又奇蹟の様な事が起こりました。徐州戦、漢口戦が一段落した頃、米国のアドベント教会から誠に勇敢な宣教師ツース夫妻が直接南京に乗り込んで来たのです。
日本軍占領下の中国には一部カトリックの神父以外は殆ど引揚げてしまい、今後中国でキリスト教が残れるか見当も附かない状況下にありましたし、日本の兵士の行動が世界中に悪評を極めていて危険であったからでもあったのです。
ツース夫妻は何を考えて、何んな交渉を上海の軍司令部としたのかも不明であり、私にも祖父政蔵にも事前の連絡もなく乗り込んで来たのでした。
軍用貨物列車が南京駅プラットホームに着いた時、停車場司令部の荷扱い分隊の兵達が順に貨車の扉を開けて行ったら、多くの荷物と共に暑さに閉じ込められて死んだ様になっているツース夫妻と赤ん坊を発見してビックリ仰天、班長が尋ねると軍司令部の列車便乗許可書も持って居り、行先も南京アドベント教会であった。
ツース夫妻は、これからどうしてこの大量の荷物と家族を目的地に運べるか途方に暮れて居た。その時班長下士官はツース師に対して「オーライ」と胸をたたいて見せ、物珍しく覗いている兵隊達に大声で指図して、トラック一台に全荷物と家族を鄭重に積み、親切に目的のアドベント教会に運んだのです。
何をするのかわからんと恐れていた日本兵に、初めて会ったツース夫妻は、先ず南京駅頭での日本兵の行為に度肝を抜かれて感嘆したのです。つまりツース等はこれで心の警戒心を棄て、やさしい日本の兵隊の誠実と機敏さにホレ込んでしまったのです。
こんな気持ちのツース夫妻が、教会堂で見たのは前述の様に、バケ物の様な姿の佐野軍曹の先導によって毎週日曜の礼拝者が
200名が案内され、又静かに退場し、あいさつを交して分散して行く光景であったから大変な驚きと感動であったのです。日本兵に就いての先入観が大きい間違いであった事を知り、日本兵に対して親しみを憶えてしまったのです。
然し事態は急逆転した。当時揚牧師は南京の教会組織の委員長をして居たが(1945年)日本の敗戦により悲惨なハメになった日本将兵達は逆に揚委員長とツース夫妻に陰に陽に大変に援助をもらいました。
南京に帰り、新政府を支配して居た蒋介石が一日も早く日本の将兵や市民、農民を祖国に帰したいと国策を決めたことは有名な事実であるが、蒋介石は大きな壁にぶち当たった。その当時揚牧師は蒋介石と親密で何かと相談して居たが、大中国の奥地の中国共産党将軍連、首相達の賛成が得られないと、この人道的快挙は達成出来なかった訳です。
互いに対立関係でもあり絶望的な話であった。そこで思い切って蒋将軍は信頼するアドベント教会のツース宣教師にこの折衝の役目を頼むことに決した。勇敢なツース師は日本兵に助けられて今日に到った恩返しをしようと決心して引受けたのである。彼の重大な国策の成否がこの交渉にかかって居た。
(ツース師は)国民党軍中佐の制服と通訳兼副官も与えられ、広大な全中国を専用機で生命がけで廻り、赤軍首脳との交渉に明け暮れしたのである。
ソ連邦ではあの様な悲惨な強制留置がなされたがツース宣教師の交渉は予想外に成功し、日本軍は奥地から海岸の方に日本市民と共に
200万人に近い巨大な数が移動し始めた。
(中正神社の項参照)
蒋介石は、この成功はアドベント教会の決死の働きとして非常に喜ばれた。
然しながら、その後勢力争いにより、(1949年)蒋介石は敗けて台湾へ逃げてしまった。
南京は終に赤軍の占領するところになった。ツース師夫妻は当分中国では教会活動は困難だから、最も親しく尊敬出来る真心の有る日本に全宣教師を集めて行こうと決心して、私に連絡して来ました
(1948年)。
私達は堺市の上野芝の高級住宅地に立派な庭の有る広い家を見附け、ここに全員を集めて日本本部とし本格的な伝道を始めたのです
(1949年)。
吾々の善意で行う事は、小さいことですが、それが時代の要求に合って大きく反応し、動き出すと、上記の様に日本民族の運命にもかかわる様な大変な事になり、百万を越える人々の生命を助けます。
上記の事実は、秘話であってアドベント関係の少数者しか知りません。当時の政府の引揚援護局長官斉藤惣一氏には報告し、同氏は前記の心優しい日本兵士の多くの戦場美談と一冊の英語文書を外務省に作らせ、全世界に送る計画を立てて居られました。
国家としても当然勲章を賜えられるべきものですが終戦後長官は死亡されてそのままです。
アドベント教会は発祥地倉吉附近より県内及び近畿地方に会堂数増加し、神学校も設けて日本人牧師数十名にも増加して活発な伝道をして居られます。日中関係のキリスト教を介する親善の回復も
百数十年の歴史的背景があり、必ず近き将来実を得るものと予想されます。
岩越政蔵牧師は終戦十数日前に、この大戦の一日も早く終結する様祈りつつ昇天しました。
平成7年(
1995)8月13日(日)倉吉復活教会に於いて増田実牧師司式のもとに、朝倉節子、前田孝二夫妻、岩本裕美枝、鉄本惇、岩越重雄、の親族代表と信徒約20名により記念会を行いました。生れ変った政蔵祖父立派な人生でした。
※この一文は、
故岩越重雄(1909〜1999)氏から朝倉・前田宛の私信に添えられていたものです。(押本記)