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最終更新日2012/05/18

自由律短歌へのヒント

自由律短歌を考える際に、参考になるだろうと思われたものを拾い上げます。

 

「短歌」と「俳句」の違い(2011/05/01)

読売新聞「書評」三浦佑之(古代文学研究者・立正大教授)『震災歌集』長谷川櫂・著から

自由律短歌の定義を、その形態から「定型の31音の内外38〜40音くらいまで」とすれば、「新短歌」は従来の定型短歌のたんなる口語ヴァージョンになるのであり、定型歌人からすれば「何故31音に収斂出来ないのか、緊張感に欠け韻律が成立しない」などと言われる。言うまでもないが、確かに最近の定型短歌は口語の採用の一般化と音数の出入りがある。しかし、いずれにしても5句31音という韻律は固く守られている。

一方、自由律俳句も、尾崎放哉や種田山頭火などの短律から脱しようとし、かつ文学性を確保しようとするのか、つい思いを述べようとしてズルズルと長くなってしまっているものも多い。形態からすると「新短歌」と見分けのつかないものもある。

これはどちらも、その短詩形の本質を形態から捕捉しようとして、本質を見逃しているに他ならない。おそらく、生前の浅野英治の唱えようとしていた「自由律短歌は世界最短の小説だ」というのは、このことを指すのだろうと思う。以下、三浦祐之氏の指摘は明解である。

 

抒情と定型を本質とする短歌は、この列島に住む人々が見いだした、おのれの「心」を言葉にできるゆいいつの方法だった。だから句作を本職とする長谷川ですら、五七五七七が口をついて出たのである。

 同じく定型表現でも、三句しかない俳句はまっすぐに心に向き合うことを避けようとし、五句の短歌は自らの思いを歌おうとする。しかも定型であるゆえに、表現された「心」は私の心であるとともに、あなたの心にも重なる。ということは類型化しやすく共振しやすいわけで、本書の歌々も、いずれは「作者未詳歌」「読み人知らず」へと昇華するだろう。そこが、個性を前面に出したい現代短歌や現代詩、あるいは小説とは根源的に違うところである。

 

後半部の「しかも定型であるゆえに…」も重要である。「そこが、個性を前面に出したい現代○○とは根源的に違うところである」。これらから自由律短歌を規定すれば、

叙情を本質とした最も短い詩。個性を前面に出しながら、自らの思いを歌おうとする最短の詩。

となろうか。

河本緑石の資料の中から「新短歌」のパンフを発見(2009)

 

 

 

 

 

 

 

 

「郷愁パンフレット」第1巻第1号<新短歌提唱号>

1924(大正13)年4月1日発行

発行所、鳥取県東伯郡倉吉町(現倉吉市)東岩倉町2265郷愁社

発行者・大倉恒敏(1895〜1956)

1918/11/28 斎藤茂吉らの「空中競詠」があり、定型歌人の自由律短歌への接近がみられた。

1924/04   前田夕暮らの「日光」創刊

1926/01   新短歌協会発足(西村陽吉・石原純・上田穆・清水信・渡辺順三ら、〜1928)

また、鳥取県内では(竹内道夫氏「鳥取文壇意外史」<日本海新聞連載>から)、

1921年3月 「曠野」(下田晩鳥)第3号に村田薫吉が口語歌4首発表

1925年7月 森寛(気高町)が口語歌集『土くさい歌』(謄写刷)を発行

1926年   合同歌集『日時計』(編集、村田薫吉。県外収載者→青山霞村・伊東音次郎・西村陽吉・上田穆・高草木暮風・清水信・鳴海要吉。花岡謙二・松本昌夫・渡辺順三など)

この流れの中で誕生した冊子と思われるが、従来の鳥取県文学史には出ていない。ただし、『曠野』1927年2月号では河本緑石・中原光石路らの自由律俳人の作品が掲載された(竹内道夫氏)らしいから、何らかのつながりはあったのだろうと思われる。

以下転載する(ただし、中途までで欠落している)

「主張」  ◎短歌の形式を破壊せよ!

 短歌の形式は最早解体の運命に瀕して居る。現代人の複雑極りなき思想と生活とをやはり旧来の如く31文字によって表現すると云う事は殆んど不可能の事となった。のみならず過去の言葉と現代語の間には其の構造の上に甚だしい距離をもって居るのである。従って過去の言葉を31文字で構成ある事が適切であった如く現代語によって構成さるべき新たなる形式を見出さねばねらぬ。

 然し乍らそれは直ちに理論によって決せらるべきものではない。それは従来の31文字という形式が理論によって決したものでないのと同様である。吾々は先ず万葉時代の種々なる歌謡の中で何故に短歌のみが現在まで根強く持続して来たかを考察する必要がある。

 からにしき、ひものかたへぞ、とこにをちにける。あすのよし、こなむといはば、とりこしおかむ。

これは万葉時代の旋頭歌の一つである。旋頭歌は短歌に最もよく似た形式を持って居る。即ち五七七、五七七で都合38文字になって居るから字数においては短歌よりも7文字多い事になって居る。この形式は誰もが気付く様に一種の原始的な哀調を持って居るが何処となく鬱陶しいぎこち無さがある。短歌の如く明快で無いという欠点があった為に終に後世の詩人から愛せられる機会なくして終ったのである。

 短歌の起源については種々なる説があるが彼の素戔鳴尊の「八雲立つ」の歌から始まったというのは全く虚構の事実であろう。短歌の形式は決して一人や二人の人に依って「発明」されたものではなく古代人の歌い慣れた形式が偶然に一致したものと見るべく、其れは水が低きに従って集まるが如く自然的であってまた必然的なものであったのである。この実例は古事記に現われて居る短歌が著しく破格のものであるに拘らず最後には自然と31文字に統一されて居るのでも分かるのである。

 然し其れは要するに古代人の帰結点に過ぎなかった。現代人には別に現代人としての帰結点がなければならぬ筈である。そして吾々じゃその帰結点を見出べきポイントに逢着して居るのだ。それならば如何なる形式を選んだならば(以下欠落)

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