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最終更新日2012/05/18

あさの・えいじの最期について

もともと、万病もちでしたが、2003年11月26日、心臓発作で市立四日市病院に緊急入院。

およそひと月、治療に専念するが12月27日最終的に手術が必要な様態に陥りました。なお、この間家族のほかに名古屋在住の竹内千世子(2002年5月、あさのの序により『一色足りない虹』を短歌研究社から上梓)さんが幾度もあさののお世話をされたことを付しておきます。

要は、心臓の機能低下で、心臓の血管バイパス再生手術が必要とのこと。本人と実姉原さわ子、実娘倫子と医師との協議の結果、手術を実施することに決定しました。血管のバイパスは10本くらいは必要らしいが、体力等から見て6本となったらしい。

また、手術中は脳梗塞への影響を配慮して人工心肺を使用せずに実施とのことでした。この心臓手術については本人も相当不安だったようです。病棟は7階。

「輸血あけの朝」

夜が明けていた うす紅に一刷け新鮮に色添えていく朝の雲

朝の雲は東へ延び西へ延び何を掴もうとしているのか

ゆっくりと形を変えていく朝の雲 空白のニュース番組のごとく

成長期の幼年の笑顔がふっくらふくらんでいき哄笑の渦

地球を満たす哄笑の渦が少年の凛々しい笑顔に変わる

座敷童子が消え雲に抱かれてすやすや眠る赤ん坊は誰

ひとときは雲が見せるおとぎ双子(草子か) このボクは生まれ変わったのか?

紅さらにうすく広がっていく雲の下 この街の一隅にひっそりと生きよう

幾人かの鮮血をうけもう一度生きる ありがとうAB型

川原の土堤の草が褐色になって今日は風に揺れて光る

見覚えのない塔があらわれる煉瓦造りの支那風か

街に低く白く輝く雲のあり病窓に見ゆる□き雲なり

ノドの長さと呼吸の長さは正比例する――と空飛ぶモグラは主張する

病窓の外は俄かに夜に入りぬスギ薬局の灯り残して

土蔵の壁から表われたり戻ったりするベッドは純白の光を散らす

膝をかかえて考え込む獅子像は中央の壁を割っても表われない

獅子像の後ろの壁の割れ目の淡い草いろの光り じんわり広がる

右の壁からスピードあげて突出するベッド直ぐ戻る 無影のベッド

幾度か繰り返えしたあと無影のベッドは背後に収納されて表われることはない

桧林の胸水の池に陥ちた山の蛇を助けたって……噂

工期5日間の遠回り道で胸水の池はのぞかずに残した

後はいよいよ食道へ接続開始 レントゲンは12月中頃か

初冬の白い牧草は夕光に耀よって首を伸ばす傾斜の群れ

朱き月 東の海に昇りたり尿路感染の濁りのごとく

(以下10首、藤原光顕氏宛分から)

船の音も浜の騒ぎも聞こえねどコンビナートは朝焼けの中

窓を開け出ていく船のエンジン音聞きいし朝の少年時代(わが少年期)

死ぬほどの病い幾つか重ね来てバイパス手術年明けに受く

これが最後の病いなれかしと朝焼け空に手を合わせ立つ

天の下 花の広がる野もあらむわが魂よしばし憩いてもよい

安らかな死はのぞまねどされどされど如何なる罪状われにありしや

離婚の罪 子離れの罪 若くして親を捨てたる姥捨ての罪

言い訳はもはや言うまじどの罪も背負い生きむかあと5〜6年

枯葉つもる山の傾斜のふところもこころやすめのわが一里塚

幸せに包む器のありやなし泣くこと笑うこと怒ることこそ

「遺作になるかも知れぬ短歌10首」

継ぎ足して継ぎ足して来し水瓶座がついに涸れたるこの年の暮れ

バイパスを6本通すという青写真 地盤沈下や破裂のおそれ

真白い恐竜までも繰り出して忙しいかな検査続行

巨大蝸牛のすさまじい響きにのみこまれ頭蓋の中がカラになりゆく

すさまじい地響きがしばらく続きボクの身体が廻りはじめる

(藤原光顕様宛分<初稿>:地響きはしばらく続き頚骨から身体がはずれ回りはじめる)

脳外科の技術もボクを援けるという血流検査が朝より続く

<ここに一首分のスペースと番号が振ってあるが該当作はない>

後2年は生きたしと思う75年の残務整理には短けれども

忙しさはすなわち愉しさとは言い切れずかなりの苦にも耐えねばならず

(藤原様分:忙しさは即ち愉しさとは言い切れずかなりの苦悩にも耐えねばならず)

恒例のクリスマスも早や過ぎ去りて騒音逃れて検査受けむとすなり

(藤原様分:恒例のクリスマスも早や過ぎ去りて騒音逃れて検査受けつぐ)

障害者一級となる手術なりわが身甘んじて受けむとすなり

以下本人の手紙から

胸部外科を中心に循環器(内科)も含め、脳神経外科も加わり1月5日、9時頃よりはじまる、わがバイパス手術のプロジェクトチームが組まれました。術時間6時間から6時間半(あるいは以上)に及ぶ大手術です。毎日、その準備の検査が幾つもあり、これも疲れます。弱気はダメと思い、気をつよく持って、生きかえりたいと思います。脳神経外科から見ても、胸部外科から見ても、単独でもかなり難しく、かと言って中止するほうも危険があり、今は危険をはらみつつ実施に踏み切るということになりました。医師団は危険因子をかなり強調していますが、成功例も多く、市立四日市病院のその成功例は天下に誇っているそうで、バイパス手術成功のそのときから、障害者一級手帳をもらう手続きや、手術の割引き手続きなど、一切の手続きは昨日(25日か)5時までに終了しています。

聞きようによっては(医師団の話は)かなりの自信を持っているようにも聞こえます。(見舞いの人からも、その成功例や、市立病院の自信の高さなどよく話に出ます。心臓を止めないで手術するのだそうです。)

とにかく神の手に任ねられた我が運命―と思います。この世に必要あらば蘇生(更正)するでしょう。

1月3日までが一番しずかな日程です。病院で過ごす新年・年の暮れ―というのも、いい経験です。

あなたや(山崎)真治が支えてくれた私の一生!と、今ははっきりと言えるでしょう。ありがとうございました。真治にも「ありがとう」と伝えて下さい。「新短歌形態論(続編)」と、私たち3人歌集をもう一回刊行して、しめくくりたいものです。

土曜日(27日) 本日より潰瘍食から心臓食へ変更

薬も心臓中心に移り、私の日常は、心臓の安定と手術への準備に入ったようです。

(以下11首藤原光顕氏宛から)

斬られるより生きる術はないのか斬られても生きていたい

斬られたのを縫い合わせてくれた医者がいたこんどは斬ると言い張る

肉体にバイパス6本通すというゆっくり歩くことにしようこの新しい道

斬りたがるのは脳神経外科も同じでいつ切れてもいい状態か

成功すれば身体障害者一級手帳持参の旅 どこへ行こうかと地図を広げている

人間の出会いまだ見ぬ風景お〜い石田耕三よ東支那海の水はしょっぱいか

耕三よ ゆっくり話せなかったけど体内を巡るこの真っ赤な血潮は血ぞ

ほんとうは怖いのだ 短歌を詠んでゆめをふくらます大晦日か

やっぱり水が足りないという水瓶座を満たす点滴がはじまる大晦日

大晦日も元旦もない生命 一年若返って出直すのもわるくない

お照りのない大晦日の街を見下ろして海の見えないのが寂しい四日市市か

☆ 明けましておめでとうございます。

2004.1.1 あさの・えいじ ☆

新年の短歌10首送ります

16年昔を語る病室にバイパス手術の経験を聞く(同室患者が経験者)

16年経て同じ手術する医師よ胸部外科医の名声高し

午前4時未明の闇に沈む街 われにも新しい年が来るのか

どのビルの窓も静かに眠る街 音遮断して新年は来る

明けそめて俄かに光り射し入れば音なき街も耀よいにけり

薄明の闇の広がり歳月はゆっくりと変身を遂げむとすなり

確実に殻ぬぎ捨てて歳月は歩み寄りけり 年新らたまり

ひっそりでいい小さな生き方がよい われもまたゆっくりと今年は変身せむが

(年か?)明けて暦変われ街の一隅 刻み生きたしわが存在を

<幸せはひそやかに来る>と言い残し飛び立ちし小鳥の抜けし羽根光る

(本文)

「手術待ち」というのはつらいものがあります。「怖い」よりも[期待]と[不安]をないまぜてフクザツです。5日〜6日の結果を待たないと、術後の入院計画が立たないのですが、一応、基準としては一週間から10日間位が多いようです。後、2〜3ヶ月置きに診察と指導を受けるようになります。

このあとの作品はさすがにありません。…訂正ありました。

術後作品(絶筆)…藤原光顕さんから

一山(いちざん)のてっぺんに至る開発 南と北がくっついた潰瘍の手術の後ような町

よく晴れててっぺんまで見通せる町 僕の知らない新開地

北から西へ機首を傾斜して飛ぶ2機 朝の日に輝く

乗せていってほしい――と見上げると飛行機 南へ傾く白銀の光り

少し残した森 とことん積み上げた高層建築が冬の空を高くする

川の土手を自動車が走り枯草の揺れがそのまま町を囲う 麓も山裾もなくなって

土手の向こうに小さな町が山の頂まで続き独立国のような青空

ふるさとにまだ知らない風景があり術後の血膿の重さひきずって窓から見ている

わずか残った森に湖があるという渡り鳥の群棲池と人の伝える

白い椿紅い椿の林道があるという 迷い子になってさすらう花影

ときには椿の花影の小径 ゆっくり歩くのもいい そうだ杖を買おう

1月5日の手術、バイパス手術は成功だったようです。ただ、容体が安定するまでには時間がかかるということでした。

そして、1月11日(日)は、本人は調子が良かったらしく、歩行器を使い、公衆電話までわざわざ行って山崎に電話をしています。山崎も、浅野の、術前より元気・爽快ふうな声に安心して、その旨私たちに伝えました。また、その日浅野は数人に「手術は成功ありがとう。新たな生を歩みたい」と手紙を書き、送っていました。そして、それは、浅野が亡くなった知らせを聞いた翌日に届いたのです。

そのとき、私が想い起こしたのは、あさのが自由律で初めて出した歌集『あさの・えいじ作品集』(1975.2.14)にのせた一首、

土に眠っている母からの電話<…………それでも生きていくんだよ>

でした。あさのからは、電話ではなく、手紙でしたが……。

通夜は2004年1月13日19時から、四日市市営北大谷斎場で。

四日市市営北大谷斎場   祭壇の前の啓介奥が<あさの>の遺影

告別式は、1月14日10時から同斎場で。喪主は実娘倫子さんの夫、原鉄雄氏。

原倫子さん  安藤克己氏  竹内千世子氏

1月14日は浅野の実姉、原さわ子さんの88歳の誕生日。本人も、あと一ヶ月、2月14日で75歳になるつもりでした。

外は10センチ近い雪。遺影は、リラックスしたお茶目顔のやさしいものでした。棺の中の本人も化粧が施してあるとはいえ、伸びやかな穏やかな表情でした。

 藤原光顕氏   須賀恵至氏  山崎真治

安藤克己氏は「まい・ぶっく出版」として大変お世話になりました。

藤原光顕氏は<あさの>のよき理解者でありました。

棺には、鹿児島から母親と一緒に来た渡邊啓介の『くたばれオレンジジュース』と、浅野の孫の原幸代(四日市西高3年)さんの短編集『レプリカ・シティ』が花々と共に添えられました。

なお、墓は四日市市川原町21-17の仏性院(電話0593-31-2252…初代桂文治の墓のある寺)で、原家の墓に納骨。

2004.1.16.押本記。1.17,29追記 。4.3追記

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