近藤真
コンピューター綴り方教室ー子どもたちに起きたリテラシー革命』
(太郎次郎社)
教師の仕事は、目の前にいる子どもたちを一つのまとまりのある集団として組織することから始まる。しかし、それは容易なことではない。これまで以上に現在は子どもたちを組織する仕事は困難さを増しているように思える。
どのように子どもたちを組織していくのか。この方法が一番だということもないし、ある方法がどの教師でもうまくいくということもありえない。一人ひとりの教師が自分の信ずる方法によって、子どもたちの前に立って取り組んでいくだけだ。
子どもたちに作文をどんどん書かせ、その作文をクラスで読み合うことで、子どもの認識を深めさせるとともにクラスの子どもたちを組織していく考え方があった。今もその考えは継承されている。生活綴り方と呼ばれる考え方である。その優れた実践者の一人が国分一太郎であり、その代表作が『新しい綴方教室』という著作であった。
本書は、こうした生活綴り方の現代版である。コンピューターを取り入れているところに新しさがある。
はじめに言っておきたいことは、子どもたちに文章を書かせる上で、前提になるのは子どもたちと教師の間に信頼関係があるかどうかということである。教師が文章を書きなさい、と言ったからといって、子どもたちは自分をさらけ
だすような文章をはじめから書くわけではない。この先生だから書いてみよう、ということが必ずあるはずである。
本書ではこうした点はあまり触れられてないが、たとえば、これまで一行も作文を書いたことのないS男が、すごい勢いで下書きを書き始めたというエピソード。また、遠足の帰りに言葉を交わした宏子が夏休みに暑中見舞いのはがきを寄こしたというエピソード。宏子の場合は、これがきっかけとなって、詩集が生み出されることになる。こうしたエピソードは、子どもたちと近藤先生との間に信頼関係があることを示している。
では、近藤先生の教室は他とちがった際だって理想的な教室だったか、というとそうではない。いじめがあり、教師と子どもたちとの対立があり、というようにどこにでもあるふつうの教室なのだ。子どもは一人ひとりちがう。そのちがいをちがいとして認め、文章による表現を大事にし、その表現を媒介として、子どもたちを育て、組織していく、というのが近藤氏の教育思想である。
この近藤氏の教育思想の実現に力を発揮したのがコンピューターの存在だった。コンピューターを活用したからこそ、成立した事例がいくつも提示されている。たとえば、はじめに触れたS男の場合。彼は、ワープロという道具を使うことによって、初めて作文をものにしたばかりか、できあがった作文は、クラスのだれよりも漢字が多く使われていて、読みやすいものであった。ワープロ
は、子どもたちの間に「書くこと」への思考変換をもたらしたのである。これが副題の「子どもたちに起きたリテラシー革命」ということである。文化祭での「アンネの日記」の台本づくりは、ワープロを使わなければできなかったかもしれない。
ワープロだけでない。近藤氏は、データーベースのソフトをうまくつ取り入れた実践例なども紹介している。また、広島の原爆の死者の数をコンピューターを使って、子どもたちに実感させることにもコンピューターを用いている。ここで使われているコンピューターは、今では古い機種だし、使われているデーターペースのソフトも高価なものではない。書き込める文字数はわずか210字だったりする。(この制限を短作文の指導につなげている。)
しかし、こうした近藤氏の実践を読んでいくと、なるほどこうしたふうにコンピューターが使えるんだな、と感心させられた。特別な、最新のコンピューターでは決してないのである。近藤氏が本書の中で何度も書いているように、コンピューターをあくまで鉛筆や消しゴムと同じ道具の一つとして使うこと、という主張を私たちは、しっかり受け止めなければならないと思う。コンピューターを使うのは、あくまで人間である。どのようにでも使える。何のために、どのようにコンピューターを使うのかを使う側がはっきり持っていないと、かつてのLL教室のようにいつのまにかコンピューター教室が倉庫と化してしまわないとも限らない。
本書については、もう一つ言っておきたいことがある。それは、ネットワーク思想とでもいったらいいか。そもそも生活綴り方という教育方法が優れてネットワーク思想とでもいうべきものを持っていた、といってもいってもいいと思う。綴り方教育によった教師たちは、子どもたちに作文を書かせるだけでは終わらなかった。必ず、作文を一枚文集に印刷して子どもたちに配った。子どもたちは、仲間の作文を読んで話し合った。そうすることで、一人の子どもの作文がクラス全員のものとなった。その積み重ねで、子どもたちは仲間から学び、理解し合い、一つの集団としてまとまっていったのだ。
近藤氏も、文章を書かせっぱなしにはしていない。文集にまとまめたり、国語通信に載せてたりしている。第3章「私はあなたが選んだ歌が好き」では、できあがった文集を読ませて、新しい発見をもたらした作者にあててメッセージを出させている。「私のすすめるこの一冊」という実践は、一クラス、一学校にとどまらない。市内の中学校まで広がっているのである。
近藤氏は、優れたオルガナイザー(組織者)でもある。「私のすすめるこの一冊」など氏のオルガナイザーとしての資質をよく証している。宏子の詩集づくりのきっかけは、彼女の詩的センスに気づき、詩作を勧めたことにある。詩集づくり、市の文化祭への作品応募、「公募ガイド」の紹介、などいろんな働きかけを子どもたちにしながら、「書く」ことを実践の中心において子どもたち
を組織し、子どもたちを育てているのである。
ぜひ本書を一読してほしい。学校にはコンピューターがすでに導入されていたり、あるいは近いうち導入されたりするだろう。コンピューターはあくまで教育活動を行う上でうまくつかえば役に立つ道具だあり、それ以上でもそれ以下でもない、という事実をこの本は教えてくれる。また、中学教育はまだすてたもんだはないぞ、というメッセージを読者は受け取ることができるだろう。
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